アイナ─2 噂の喫茶店

 ここは、日本のとある町にあるレトロな喫茶店。数年前に閉店した喫茶店を買い取った父子が、最近始めた古くて新しい店だ。

 店名を『喫茶店そると』という。

 開店直後は様子見をしていた近隣の住民も、マスターの穏やかな人柄と看板娘の率直で飾らない物言いに惹かれて来店するようになった。やがて口コミが広まり、近くの大学の学生なども姿を見せるようになっていた。

「いらっしゃいませ。ようこそ、喫茶店そるとへ!」

 カランカランと扉につけられた鈴が鳴れば、ツインテールが愛らしい女性が迎えてくれる。彼女の名は塩原美里しおばらみさと。大学を中退して、現在二十歳だ。そして、この喫茶店のマスターの娘である。

「こんにちは、美里さん」

「……また来たのか、天也てんや

 来客の正体に気付き、美里の言葉遣いが普段のものに戻る。

 現在、午後五時過ぎ。ランチの時間はとっくに過ぎ、お茶の時間には遅い。更に夕食には早いという、喫茶店では比較的落ち着いた時間帯だ。この男子高校生は、その時間を狙って毎週のようにやって来る。

 日本人らしい黒髪を短く切り揃え、僅かな風に目の上まで伸ばした前髪がなびく。濃い色の瞳が真っ直ぐにこちらを見詰めていた。

「酷いな、美里さん。俺が来るのはわかってたでしょ?」

 そう言って悪びれずに笑うのは、近所に住む石崎いしざき天也だ。一年前から毎週のようにこの喫茶店に足を運ぶ常連である。

 美里と天也には、とある縁がある。そしてその縁は、マスターであるソイルにも当てはまるのだ。

 二人が軽口を叩き合う中、奥で食器の片付けをしていた男性が気付いてこちらへやって来た。黒色のエプロンをつけた、塩原ソイルだ。

「いらっしゃい、天也くん。早いね、部活は終わったのかい?」

「こんばんは、ソイルさん。今日は部活休みなんです。体育館の耐震工事をするからって」

「成る程ね。さあ、好きな所に座って。いつもの紅茶で良いかい?」

「お願いします」

 天也がカウンターの席に陣取ると、美里が氷の入った水を置いた。口では何だかんだと言いつつも、その辺りは店員としてきっちりしているのだ。

 ソイルはそこまでを見届けると、紅茶の茶葉が入ったケースを手に取った。お湯を沸かし、良い香りのする茶葉を取り出す。

 支度がなされる間、美里は天也から離れて他のテーブルや椅子をそれぞれ布巾で拭いて回る。窓の外を見れば、行き交う人と車の流れが見えた。こちらに来て、見慣れた景色だ。

(いつの間にか、幾つも季節が巡ったな)

 ソディールにいた頃は、毎日が命がけだったように想う。狩人として敵対する魔種や獣人を襲い襲われる日々は、美里が本来持っていた穏やかで明るい気性を奪った。

 あの頃は正義だと信じていたものが、実は見方を変えれば正義ではないと知った時の衝撃を忘れられない。全ては、星丘大学で晶穂と出会ったことで変化した。

 ダクトという神を崇め信じ、人間以外は必要ないと頑なだった自分は愚かだった。それに気付けたことが、美里──アイナ・レーズ──の転換点だ。

「うーん……」

 思考を何処かに飛ばしていた美里は、背後で聞こえる悩ましい呻き声を聞いて我に返った。振り返れば、学生服姿の天也が頭を抱えていた。

「……何を悩んでいるんだ?」

「美里さん。───す、数学が」

「私は文系だ」

「教える気、ゼロかよ」

 息も絶え絶えの天也にため息をつき、美里は彼の隣に腰を下ろす。天也の手元を見れば、数学の問題集とノートを広げていた。今日の宿題らしい。

「家でやれ」

「やるけどさ、ここの方が集中出来るんですよ」

「なら、頑張れ」

 突き放す物言いをしながらも、美里が席を立つことはない。いつの間にかソイルが二人分の冷たい紅茶を用意していたし、パウンドケーキまで用意し始めたのだから、と美里は内心で言い訳した。

 今日のパウンドケーキは、オレンジピールが入った爽やかなものだ。どの手作りケーキも美味しくて好きだが、これも絶品なのである。

「……」

「……」

 紅茶を一口飲み、天也は再び宿題に向かった。その横顔を何となく見詰め、美里は彼が初めて店に姿を見せた時のことを思い出した。


 一年前の夕刻、突然店が光を放った。

 二階の自宅にいた美里は、同じく居間にいたソイルと共に慌てて店へと下りていった。そしてそこで、倒れている天也を見付けたのである。

 天也は「ソディールから帰ってきた」のだと言い、創造主の言葉と自分が体験したことを美里たちに語った。それには数時間を要したが、美里とソイルは懐かしい話に目を見張ったのである。

「この店が、ソディールと日本を繋ぐ……?」

「はい。一年に一度、五月十日の一日だけ。俺は、唯文たちに会いに行きます」

 笑い飛ばせばよかったのかもしれない。そんなわけがない、と。ソディールと日本を繋ぐ扉は消えてしまったのだ、と言い返してもよかったのかもしれない。

 しかし、そんなことは冗談でも出来なかった。内心の喜びと罪悪感で、美里は言葉を失った。

 ソイルと美里は顔を見合わせ、天也の冒険譚を聞いた。そこにあったのは確かに銀の華の人々の話であり、激しい戦いの記録だった。

「晶穂、あのは今も向こうにいるのか」

「晶穂さんのこと、やっぱり知ってるんですね? 元気ですよ、リン団長たちと一緒に」

「……そうか」

 かつて、同じ大学に通った友人だった娘のことを思い出す。彼女は疑うことなく、敵であるとわかった後も美里を友だと言い続けた。

 晶穂の言葉がどれ程美里を揺さぶったか、彼女は知らないだろう。

 目を伏せた美里をまじまじと見詰めていた天也は、良いことを思い付いたと言うようにパンッと手を叩いた。

「晶穂さんの友だちなら、来年一緒にソディールに行きましょうよ。きっと、喜ばれますよ」

「私は……無理だ」

「どうしてです?」

 無邪気に理由を問われ、美里は気まずそうに目を逸らした。

 天也は、狩人を知らない。知るはずがない。

 人間以外は不要と貶め、獣人や魔種を迫害して傷付けた集団など、嫌われるに決まっている。

(嫌われる? どうしてそんなことを気にする……?)

 美里の中に困惑が広がる。日本に来てから何度も狩人であった過去を後悔したことはあったが、などと思ったことはなかった。しかも、初対面の年下男子相手に。

 結局美里は、晶穂に会えない理由を有耶無耶にしてその場を終わらせたのだった。


「……」

「あの……、美里さん?」

「あっ、すまない。考え事をしていた」

 心配そうな顔でこちらを覗き見る天也の顔が、間近にある。美里はハッと我に返ると苦笑して紅茶に手を伸ばした。

 天也は宿題を終え、パウンドケーキにフォークを刺していた。既に半分食べ終わっている。

「美里、温かい内に食べてくれ。その方が旨いから」

「うん。ありがとう、お義父とうさん」

 ソイルのアドバイスを素直に受け、美里はまだ湯気をたてる紅茶を一口飲んだ。そして、オレンジピールのパウンドケーキに手を伸ばした。

「……うん、美味しい。流石だね」

「お褒めに預かり光栄です」

 仰々しく紳士の礼をして見せたソイルは、穏やかな笑顔で美里と天也を見詰めた。

「本当に、こんな日が来ようとは思いもしなかったよ」

「私もそう思う。……これはきっと、チャンスなんだよな」

 自分に言い聞かせるように呟いた美里は、店内に飾られたカレンダーを振り返った。商店街の福引きで当てた、何の変哲もないカレンダーである。

「……ちゃんと、言わないと駄目なんだよな」

 二つの世界が繋がる日まで、あと三十日。




 次回は、美里の養父・ソイルの物語。

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