第22話
「五月彩都くん、を知っていますか?」
五月くんはその名前を聞いた途端、目を大きく見開いた。あたしはくっと唇を噛み締めたまま、彼の顔を見つめ続ける。
「‥‥‥どうして。‥‥‥どうしてその人の名前を知ってるんだ?彩都はもう‥‥‥」
「‥‥‥幼い頃の、知り合い、なんだ。でも一度別れたっきり、それから一度も会っていない」
五月くんはあたしの言葉に少し迷ったように目線を彷徨わせ――。
「俺の家に来て。彩都に会わせてあげる」
あたしは少し迷って――深く大きく、首を縦に振った。
五月くんの家は、うちから歩いて約10分といったところか、あたしの家の近くをランニングコースにするには、丁度いい距離だ。
五月くんの家には誰もおらず、しんと静まり返っていた。
「水羽、こっち」
五月くんは手招きし、リビングの奥の部屋、和室に通した。
そこにはぽつんと一つ、仏壇がおいてあった。
それを見て、あたしはごくりをつばを飲み込んだ。手が、震える。足が、震える。胸が、痛い。知りたくない、信じたくない事実がそこにあるような気がした。
「そこに、彩都はいるよ」
仏壇に飾ってある写真は、五月くんとよく似ている。記憶のなかの彩都くんの笑顔と、ぴったり重なった。全開の笑顔のときに見せる、目の端のシワ。左右にできるえくぼ。あの彩都くんの笑顔、そのままだ。
「そんな‥‥‥彩都くん‥‥‥」
あたしはその場に崩れるように座り込んでしまった。
「彩都くん‥‥‥彩都くん‥‥‥」
彼は――病気がよくなったから退院したわけではなかったの?余命宣告を受け、自宅療養という道を選んだの?
「彩都――俺の三つ上の兄貴で、三年前に先天性の病で亡くなった」
あたしの三つ上ってことは、生きていれば今はもう、高校二年生だったってこと‥‥‥。
ああ、どうしてあたしは、彼のことを忘れてしまったのだろう。三年前に亡くなったということは、退院してすぐってことだ。
もし三年前に戻れたならば、彩都くんときちんと話がしたい。死んでしまうという未来は避けられなくても、後悔せずに見送ることだって、できたのかも‥‥‥しれない‥‥‥っ‥‥‥。
「う‥‥‥ふ‥‥‥ふぇ‥‥‥」
あたしは嗚咽を抑えきれなくて、思わず漏らしてしまう。苦しい、苦しいよ。でもそれよりずっと、彩都くんのほうが苦しかったはずだ。
もっとちゃんと、顔を見て話していればよかった。退院の日、元気に挨拶していればよかった。
「兄貴‥‥‥」
五月くんはあたしが泣いている間ずっと、あたしの背中を擦り続けた。
「水羽、落ち着いた?」
「うん。‥‥‥ごめんね、泣いちゃって」
あたしはポケットから出したハンカチで目元を拭う。涙は止まっても、胸の痛みが収まることは、もう一生ないだろうと思う。
「‥‥‥水羽、教えて。どうして兄貴のことを知ってるんだ?‥‥‥兄貴は生まれたときから病気で、学校にまともに通えていないのに、なんで水羽は兄貴のことを知ってるんだ?」
あたしは少し迷った。病気のこと、五月くんに話してもいいのだろうか、と。だけど五月くんだって、彩都くんのことを話すのはためらったはずだ。それなのに話してくれたのだから、あたしも話さなければ。
「見て」
私は一度もまくったことのなかった制服の袖を、少しだけまくりあげた。たくさんの四葉模様があらわになる。それを見て、五月くんは驚いたように目を見開いた。
「彩都くんのことを知ってた理由。それは、‥‥‥あたしが、彩都くんと同じ病院に入院していたからだよ、ずっと」
あたしは病気のことを、すんなりと話してしまった。
あたしは先天性の不治の病を患っていること。
入院していた小学二年生のとき、彩都くんと出会ったこと。
仲がよかったが、あたしが五年生のとき、退院してしまったこと。
自分のことに精一杯で、彩都くんのことを忘れてしまっていたこと。
彩都くんとそっくりな五月くんと出会い、気づかぬ間に二人を重ねて見ていたこと。
彩都くんの存在を思い出したこと‥‥‥。
五月くんはなにも言わなかった。ただじっと、あたしの言葉に耳を傾けているだけだった。あたしが最後まで話し切ると、五月くんは静かに口を開いた。
「‥‥‥俺、水羽の話、兄貴から聞いてるかもしれない。‥‥‥ちょっと待ってて」
五月くんはそれだけいうと、リビングを出ていってしまった。あたしは一人になってしまった和室で、彩都くんの写真と向き合う。
「彩都くん、ごめんなさい。
彩都くんのこと、忘れていてごめん。
三年前、冷たい別れ方をして、ごめん。
彩都くん、ありがとう。
辛い治療中でも、あたしの側にいてくれてありがとう。
いろんなことを教えてくれてありがとう。
もう少しであたしもそっちに行くことになるかもしれない。でもあたしは、もっと生きたいんだ。
だから見てて。‥‥‥生きられなかった彩都くんのぶんまで、一生懸命生きるから、だからずっと、ずっと、見守ってて、ください‥‥‥」
鼻の奥がツンとし、彩都くんの顔が歪んで見える。枯れたと思っていた涙が、もう一度溢れて止まらない。頬を伝った涙が、あたしの手の甲に落ち、スカートに落ち、シミを作っていく。でもあたしは、その涙を拭うことはしなかった。
彩都くん、彩都くん、彩都くん‥‥‥。
「本当に、ありがとう‥‥‥」
嗚咽にまみれたような、そんな小さな呟き。
『まだこっちにきちゃだめだよ、つんちゃん。ボクが見守ってるから、もっともっと、ずっと長く生きるんだよ』
彩都くんの温かい声が、小さく、あたしに聞こえたような気がした。
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