第16話

「あら祈、お帰り」

「ただいま」


出迎えてくれたのはお母さんだった。なんだか忙しなく、あっちにいったりこっちにいったりを繰り返している。何かあったのだろうか。

私は手を洗い、荷物を置くために自室に行った。バタバタと騒がしいのは、隣の部屋――続の部屋だ。

扉は少しだけ開いていて、中の様子がうかがえるようになっている。私は少し気になって、そっと続の部屋を覗いた。


「‥‥‥っ!」


驚いた。もともときれいだったのかどうかはわからないけれど、物が散乱して、足の踏み場もない状態。床には、ちぎられたノートらしきものや、割れたのだろうか、なにかの破片が散らばっている。


「‥‥‥祈」


声を失う私に後ろから声をかけたのは、お母さんだった。私はびっくりして声を出しそうになるが、その口をお母さんが塞いだ。片付けに来たのだろうか、手にはゴミ袋と掃除機が握られている。

私は隣の自分の部屋に入った。ここにいてはいけない、私はいるべきではないと、そう思ったから。

私は乱暴に荷物を置くと、どかっと椅子に腰を下ろした。宿題をしなきゃいけないのに、やる気が起きない。いくつかメールも入っているみたいだけど、確認する気も起きない。

突如、隣の部屋からガシャンという、なにか割れるような音がした。私は思わず部屋を飛び出し、続の部屋をのぞく。


「もう、放っておいてよ!あたしにかまわないで!」

「‥‥‥ごめんなさい」


続は大きな足音を立てて部屋を出て、廊下にいた私を一瞥すると、さっさと階段を降りていった。ばたんという玄関の扉が閉まる音が聞こえる。外に出ていったのか。


「‥‥‥お母さん」


私は震えているその背中に、思わず声をかけた。


「祈‥‥‥」


お母さんは顔を上げなかった。お母さんの目の前には、ノートを真っ二つに切り裂いたものが転がってた。私はそのノートを手に取った。見てはいけないような、でも見たい。そんな衝動に駆られ、私は一ページ開いた。


『祈ともっと、話がしたい』


ぎこちない、ガタついた文字。そして一際輝いて見えたのは。


『病気を治したい』


この七文字に込められた思いは、私には想像できないほど大きくて、強い。生きたいという思いは、きっと誰よりも、強い。

私はノートを抱きしめて、部屋を出た。お母さんは、なにも言わなかった。



「はあ‥‥‥はあ‥‥‥」


私は坂を駆け下りた。この道を通るのは何度目だろう。でもこの先の、まだ行っていないあそこに、彼女がいる気がした。

翠坂はかなり探した。だけど一箇所、探していないところがある。

私はその場所で立ち止まった。

――翠坂中学校。

階段を上り、教室までくる。――ビンゴだ。休日とはいえ、部活があるため学校はあいている。その上校舎の鍵は開けられているから、いるならここしかないと思った。


「‥‥‥続」


私の席に腰掛けて、外を眺めている続に声をかけた。ぴくりと体が揺れる。外を見ていたはずなのに、私が来たことに気がついていなかったのだろうか。


「‥‥‥祈、どうしてここがわかったの?」

「姉の勘?なんだかここにいるような気がして」


私は続の席に腰掛ける。丁度対角のこの場所は、お互いの顔を見ることはない。


「『やりたいことノート』。見たよ」


私が唐突に言い放つと、続は振り返った。恥ずかしそうに頬を染めているのか、怒っているのか。


「『全部達成するまで絶対に死なないこと』」


私はこの一言が一番、心に刺さった。誰よりも生きたいと、そう強く願う続の思いが、全てこもっているように感じたから。


「大丈夫、続は絶対に死んだりしない」


私はそう言い切ると、席から立った。


「‥‥‥それは祈にとっては他人事だから。病の辛さなんてこれっぽっちもわかんないから。だからそんなこと言えるんだよ‥‥‥」

「私だって、わかってあげたい。私は続の片割れなのに、続の苦しみを分かち合うことができない。それがすごく、悔しい」


続の病気を知った頃からずっと、そう思っていた。後ろめたいとさえ思った。一緒に生まれたのに、私だけが元気に過ごして、続だけが命の危機にさらされることへの怒り。明日起きたら、続はいないんじゃないかという不安。


「私が続の病気を治すよ」

「そんなの、できっこないよ。だって治す方法なんて、一つもない」

「そんなことない」


私は走って、続の目の前に立った。


「私は、医学研究者になる」


続が目を見開いたのがわかった。私は続の両手をそっと包み込む。その指は、冷たくて、細い。


「私が続を救う」


包んだ両手が少し、震えたように感じた。


「‥‥‥ありがとう、祈。でももう、いいの」


続は少し笑ったけれど、その笑みは全てを、未来を諦めているような、そんな気がした。


「わかってる、現実的じゃないことぐらい。病気が治ることなんか、ありえっこない。だけどどうしてだろう。夢を見てしまう」


続はそう言いながら、そっと瞼を閉じた。


「楽しい、幸せな夢。


あたしも祈も元気で、仲が良くて、生まれた頃から、ずっと。

一緒に運動をするの。祈の大好きなバドミントンがいい。汗を流して、もう一回戦、って競い合う。夢の中でも、あたしは祈に負けちゃうけどね。

一緒に勉強をするの。二人とも勉強は嫌いだけど、頑張って教えあって、テストの結果が出たときは、お互いに喜び合う。これで高校に近づいたねって、笑うの。

恋もする。もしかしたら好きになるのは同じ人かもしれない。だってずっと一緒にいるものね。優しくて、強い人がいい。

竜田さんや五月くんとも仲良しで、四人でお話するの。とても楽しいお話。

大人になって、いずればらばらになったとしても、楽しかったねって笑っていたい。幸せだねって笑っていたい。


夢物語だってわかってるのに、どうしても、この夢を諦めることができない。

――ねえ、祈。あたしは、もっと生きたいよ‥‥‥」

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