第11話

『ばいばい、つんちゃん』


彼はあたしに手を振って、背を向けた。彼はなんだか、寂しそうに笑っていた。呼び止めなきゃ。このまま別れたらだめだ。そう思うのになぜか、名前を呼ぶことができない。喉に熱いものが引っかかったように、言葉が詰まる。そして吐きそうになる。

あたしは泣いていた。

彼とはもう二度と、会うことはできない。そう思った――。



「――き、つづき、起きなよ、続!」


体を左右に揺さぶられ、あたしは目を覚ました。祈があたしの顔を覗き込んでいた。


「‥‥‥あ、おはよう、祈」

「おはよう、続」


祈はあたしが起きたことを確認して、部屋を出ていった。あたしはもぞりと起き上がった。頬がなんだか生温かい。なんだろうと思って拭ってみると、頬が濡れていた。夢の中だけではなくて、現実でも、寝ながら泣いていたようだ。あたしはほうっと息を吐き出した。

何度も見た、同じ夢。彼の名前はわからない。知っている誰かなのか、それとも、全く知らない誰かなのか。でも、本当に大切な誰かで、このまま失ったらだめだと、強く思った。思い出せそうなのに、霞がかったように鮮明に思い出すことができない。


「ううっ‥‥‥」


あたしはこめかみを押さえてうずくまった。痛い、頭が割れそうなほどに、痛い‥‥‥。


「‥‥‥はあ‥‥‥」


頭の痛みが収まってから、あたしはまた起き上がった。

彼のことを思い出せる日は、来るのだろうか——。



『――ちゃん、つんちゃん』


うるさいくらいに名前を呼ばれて、目を開いた。

また、彼だ。


『覚えて、ない‥‥‥?』


寂しそうに顔を歪ませあたしを見た。ゆるゆると微笑むが、どこかで諦めているような、そんな気がした――。



目を開くとそこは、いつもの天井、いつもの布団。いつものあたしの部屋だった。頬が濡れている。また泣いていたようだ。

時計を見てみると、まだ五時を回ったところで、あたりはまだ静かだった。もう寝る気になれず、あたしは布団から這い出した。登校までかなり時間がある。あたしは気分転換に散歩に行くことにした。



鳥のさえずりや葉の擦れる音だけがあたりに響く。緑の薫りが心地いい。


「あれ、祈?」


後ろから誰かに呼ばれた。あたしじゃないけど振り返った。五月くんだった。体力づくりのトレーニングだろうか。


「珍しいね、祈。いつも朝起きるの遅いんじゃなかったっけ」


五月くん、‥‥‥あたしと祈を勘違いしてる?

あたし、祈じゃないよ‥‥‥そう言おうと五月くんの顔を見たとき。

夢の中でのことを何か、掴みそうだった。ふいっと何か、掴んだはずだったのに、それはただの、空気だった。


「うっ‥‥‥」


痛い、頭が痛い。あたしはこめかみを抑えて蹲った。


「祈!?大丈夫!?」


なんで、五月くんは‥‥‥、五月くんは、『彼』なの?あたしが忘れている『彼』なの?

‥‥‥いや、そんなはずはない。だって五月くんは、今年初めて会ったのだから、そんなはずはない。


「‥‥‥ごめんね、五月」

「家まで送ろうか?あ、おぶろうか?」

「大丈夫」


あたしは五月くんに背を向けて、歩き出した。

ふと思った。五月くんは、、と。



「ただいま」


家に帰ったけれど、まだ真っ暗。誰も起きていないようだった。時計を見るとまだ六時前。そりゃ、起きてないか。

あたしは音を立てないように自室に入り、制服に着替えた。少し汗ばむけれど、四葉病の印のようなものである模様を隠すため、長袖を着なければならないのだ。

あたしはふと思い立って、部屋のクローゼットを開けた。そこには祈のお下がりの洋服や買ってもらった服が少し、まだ新しい夏服のスカートが入っていた。もちろん、半袖はない。目当てはそこじゃない。下の引き出しから、一冊のアルバムを取り出した。


『続の闘病日記』。


あたしが小さい頃、お母さんがせっせとつけていたのだ。今思えば、育てなきゃいけないのはあたしだけじゃなくて、祈もいたはずなのに。すごいなぁ。

あたしは一ページ一ページめくっていく。お母さんの綺麗な字で紡がれた文章と、少しの写真が所狭しと並んでいる。あたしはその文章を指でなぞりながら読み進めた。

何ページが読んだところで、手を止めた。目を見張る。はっきりと霞が晴れた——ような気がする。頭が痛むけれど、そんなこと気にしていられない。

そのページには、あたしと夢の中の彼が、並んで写っていた。あたしは不満そうに顔を歪めたまま、カメラを見ることなく下を見つめている。彼は少し困ったように眉を下げて笑っていた。


彩都さいとくんは今日で退院。元気になったからお家へ帰るんだって。続も早く元気になったらいいね』


あたしと同じ、小児病棟の同じ部屋で入院していた彼。歳が近かったこともあって、よく一緒に遊んでいた。治療が嫌だからと二人して部屋を抜け出したこともある。看護師さん——マヤさんにめちゃくちゃ怒られたけれど、彼が笑っていたから、あたしもつられて笑っていた。マヤさんも終いには、怒ることを諦めていた。


『つんちゃん、ありがとうね』

『ボクね、つんちゃんといるのがいっちゃん楽しい!』

『バイバイ、つんちゃん』——


彼がなんの病気を患っていたのかは、今でも知らない。



彼の名前は、彩都くん、そう、五月彩都くんだ——。

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