第10話
あたしは胸を抑えた。どくどくと規則的に鳴る鼓動が、手のひらを通して伝わる。大丈夫、生きてる。
ふと思い立って、携帯を開いた。四月に退院してから買ってもらった、新しいもの。だけどお母さんとお父さん、祈の連絡先しか入っていないしほとんど利用していなかった。ネットを開き、『四葉病』と検索する。わかっている。何度も調べたのだから。だけど、やめることができない。もしかしたら今日、新たな情報が出ているかもしれない。江畑先生が教えてくれない情報が、あるかもしれない。そう思うから。だけど。
『1984年に各国で発見された先天性の病気。原因は不明。難病に指定されている。発病から約十五年で死に至ると言われている。進行を遅らせることは可能だが、根本的な治療法はまだ解明されていない』
ずっと変わらない文面。あと三年、あと三年のうちに、この文面が変わることを祈るけれど――。
あたしは久しぶりにやりたいことノートを開いた。最初のページにある、『病気をなおしたい』。あたしはその字を、鉛筆でぐりぐりと塗りつぶした。無性に腹が立って、涙が滲んだ。
「じゃあこの問題を‥‥‥水羽続さん」
数学の授業中、ぽけぇっとしてしまったあたしは先生に当てられる。名前を呼ばれて
我に返った。もしかしたら‥‥‥と思うが、ノートには何も書かれていない。あっちゃあ‥‥‥やっちまったぜ‥‥‥。連立方程式だって?黒板に書かれている式は‥‥‥なんだあれ?xとyあるし‥‥‥。なんだあれ(二回目)?
「水羽」
小さい声で呼びかけたのは、隣の席の、五月くんだった。ノートにはきれいな文字で答えが求められている。
「x=3、y=2です!」
「はい、よくできました。でも授業はきちんと聞きましょう!」
若干注意を受ける。はあい、気をつけまーす‥‥‥。
正直、もう勉強はしたくない。なんの役にも立たないから。だけど、行かなきゃならない。行かなきゃみんな、心配するから。休むって言うと、お母さんが悲しそうな顔をするから。見ていられないくらい、悲しそうな、今にも泣き出しそうな顔をするから。
そうだ、思えばあのときも、お母さんは同じような顔をしたのだ。
二歳の頃に発症した四葉病。五歳くらいの頃は、まだ症状は軽く、どうして入院しているのか分からなかった。お母さんに聞いたのだ。あたし、どうして入院してるの、と。お母さんは顔を歪ませた。そうして言ったんだ。ごめんね、ごめんね、と。こんなふうに産んでしまってごめんね、お母さんが代わってあげられればよかったね、と。それ以上、あたしは追求できなかった。幼心に聞いてはいけないことだと、そうはっきりと感じ取ったから。
やがて小学校に上がり、四葉病という病気だということ、難病で完治はできないということを江畑先生から明かされたとき、そんなに驚かなかった。だからあたしは入院しているのかということを知った、ただそれだけのことだと思った。
今思えば、あの時のあたしは、かなり冷静だった。泣き喚いたりしなかった。江畑先生ににすがりつくことなんてしなかった。お母さんに、お父さんに泣きついたりなんてしなかった。病気を恨んだりしなかった。普通に暮らせる人を、羨んだりしなかった。ただ単に、そこまで頭が回らなかったのかもしれないが。
お母さんはそんなあたしを見て、もっと悲しそうな顔をした。続は生きることを諦めている。そう解釈したのかもしれない。
「数学係ー、これ職員室まで運んどいてくれるかなー?」
「あ、はいっ!」
数学係であるあたしは先生に言われて前に出た。置いてあるのはクラスの人数分の回収した問題集。今日が提出日だったものだ。
そういえば、もうひとりの数学係は風邪を引いておやすみ、つまりあたしひとりで四十冊近い問題集をここ(本館四階)から職員室(別館一階)まで運ばなければならない。
分けて運んでいては、時間が足りない。仕方ない、一回で行くか。あたしは一つにまとめて抱えた。ズシンっと重さが腕に伝わる。ううっ‥‥‥重い‥‥‥。
次の授業が体育であるため、みんなはさっさと着替え始めている。あたしは体育には出ないから、焦らなくても大丈夫だ。
よたよたと階段を一段一段下る。同じクラスの子が急いで階段を駆け下りていく。あたしには気がついていないのか、声もかけてこない。まあ、手伝ってもらわなくていいんだけどね。
よし、これで最後の段、二階についた――と思ったら。
「わわっ!?」
もう一段、あった。がくんっと体が傾いた。バサァ‥‥‥。
「ああ‥‥‥」
問題集をすべてその場にばらまいてしまう。拾わなきゃ。
「ご、ごめんなさい‥‥‥」
階段を駆け下りていく人たちや通り過ぎていく人たちはみんな、迷惑そうにあたしを一瞥し、そして目的の場所に行ってしまう。助けてもらえるなんて思っていないし、求めてもいない。だけどなんだか、虚しくなる。段々と手の動きは遅くなって、終いには、全く動かなくなった。涙が滲んで問題集がどこにあるのかわからない。どうして泣いているのか、自分でもわからなかった。
「――水羽?」
そう、声をかけられた。とても優しい声。
「五月、くん‥‥‥」
五月くんはたたっと階段を下ると、問題集を集めて全部抱えてしまう。
「ま、待って、数学係、あたしだし‥‥‥」
「女子にこんなに持たせるわけにはいかないだろ?‥‥‥じゃ」
五月くんは持っていた分の三分の一を渡す。これでよし、とつぶやくと、先立って一階に降りていく。
あたしは黙ってついていくことにした。
「こういうとき、言えよ?」
五月くんは呆れてようにあたしを見て、そして少し笑った。その笑顔が、あたしの胸に引っかかる。どきりと高鳴る。ツキっと胸を少し引っ掻いて。
「‥‥‥うん、ありがとう」
そんな胸に気が付かないように、あたしは笑った。
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