第8話
『やりたいことノート』は三ページ目に突入した。
これを初めてから、なんだか明るくなった気がする。未来を見るようになったからだろうか。お陰で体はあまり重たく感じない。
コンコン、と控えめにノックする音が聞こえた。おそらくこの音は、お母さんだ。あたしはノートを閉じた。
「続」
当たりだった。優しい、でも少し疲れたような笑みを浮かべたお母さんが、病室に入ってくる。
「続ちゃん」
予想外だったのは、お母さんの後ろから江畑先生が入ってきたことだった。お母さんと先生が一緒に来ることは、珍しい。
先生は、いつになく優しい顔をしていた。いや、いつも優しく笑っているのだが、なんだか違うのだ。あたしはその笑顔に、不穏なものを感じずにはいられなかった。
お母さんと江畑先生は、ベッドのそばの丸椅子に並んで腰掛けた。
「続ちゃん、単刀直入に言うよ。君の病気は進行している」
――ああ、やっぱりだ。お母さんとお父さんはいつもあたしのところに来る前に江畑先生に病気の進行度や状態などを聞く。隠したりしない、それが約束だった。
「ねえ、それって‥‥‥どういうことなの‥‥‥?」
あたしに似た、でもあたしじゃない、お母さんでもない声が聞こえた。
一斉にドアの方を見ると、制服に身を包んだ祈だった。
「ねえ続、どういうこと?お母さん‥‥‥ねえ、どういうことなの‥‥‥?」
「祈‥‥‥どうしてきたの?」
お母さんは驚き、そして怒っている。祈にはあたしの病気のことを、知らせてはいなかったし、この先も知らせる気はなかったらしい。
「‥‥‥ごめんね、祈」
あたしは少し困ったように笑ってそれだけしか言えなかった。とっさのことすぎて、それ以外の言葉は出てこなかった。
「祈、少し外で待っていなさい。あとで話そうね」
お母さんは優しく、でも有無を言わさぬ口調でなだめ、祈を外に出す。
「‥‥‥それで」
先生は祈が出たのを確認すると、続きを話し出す。
「続ちゃんの余命は、長くて三年だ」
「‥‥‥っ」
お母さんが息を呑むのがわかった。だけどあたしは、自分でも驚くほど冷静だったと思う。そうですか、わかりました。そういうように一度、うなずいただけだった。自分の中でそういう運命だと、知っていたから、わかっていたからだろうか。
「治す方法はまだ‥‥‥ないんですか‥‥‥?」
「治療法は確立されておらず、手術により進行を遅らせることは可能ですが、完治までに至っていません」
何度も聞いた、その言葉。
「じゃあ、また進行を遅らせる手術を‥‥‥」
「続ちゃんは三度その手術を経験しています。その手術は三度が限界で、それ以上やってしまうと三年生きられるかどうかも危うくなってしまうんです」
「でも‥‥‥そんなの‥‥‥っ!」
お母さんはわなわなと唇を震わせる。
「お母さん、大丈夫だよ。あたし、大丈夫だから」
なにが大丈夫なんだろうか。自分でもわからないのだが、そう言うしかなかった。今にも泣き出しそうなお母さんを見ていると、自分が惨めになる。
わかっていたことだ。治らないと、小さな頃から言われてきたじゃないか。何を今更、命乞いは、無駄なのに。
江畑先生はもう少し話したいことはあるみたいだったが、お母さんにこれ以上刺激を与えるのはよくないと勘弁してもらった。
祈と話したいことがあるから、とお母さんは廊下に出てもらった。さっきのお母さんと同じ位置に座った祈は、嘘だ、嘘だとつぶやいている。よく見ると通学カバンを肩にかけていた。そのままお母さんを追いかけて、ここにきたのだろう。
「嘘だよね、続。病気なんて、嘘だよね」
あたしは祈のその言葉に首を振った。
「‥‥‥ごめんね、祈」
「‥‥‥どうして言ってくれなかったの‥‥‥?私、続のお姉ちゃんじゃないの?ねえ、続‥‥‥。
お願い、本当のこと、教えてよ‥‥‥」
あたしは黙ってしまった。病気のことを話さなかったのはお母さんたちとの約束だったし、なによりもあたしの意志だった。再発してしまうことくらい、わかっていたけれど、祈に心配をかけたくなかった。
「――‥‥‥っ」
祈はそっと、あたしの手に自身の手を重ねた。その手は、小刻みに震えていた。
「――隠してて、ごめんね、祈」
あたしは先天性の
症状としては、急に胸が痛くなったり、息が苦しくなったりする。激しい運動をすることができず、日によっては歩くことさえ苦しいときもある。手先がうまく動かせず、字がうまく書けなかったり、靴紐が結べなかったり。
発見されてから何年も経っているのだが、治療法は確立されていない。手術によって進行を遅らせることは可能だが、完治はできない、難病だ。
三度の手術で進行を遅らせ今まで生きながらえたが、もう手術はできない。余命宣告されたということは、そういうことなんだ。
祈は静かにあたしの話を聞いていた。相変わらず重ね合わせた手は震えている。
「‥‥‥続がいなくなったら、嫌だよ‥‥‥」
「っ!」
あたしは気がついたら、頰が緩んでいた。
「‥‥‥嬉しい」
あたしはぎゅっと、祈の細い体を抱き寄せた。祈もためらいがちにあたしの背に手を回す。
「続じゃなくて、私が四葉病だったらよかったのにね‥‥‥」
「そんなこと、言っちゃダメだよ。あたしが四葉病になったのは、運命なんだから‥‥‥」
すずっと鼻を啜る音が耳元で聞こえた。肩口が濡れている気がする。祈、泣いてるんだ。
「ごめんね‥‥‥」
あたしも気がつけば、祈につられるように、涙を流していた。
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