第5話
「祈ー!続ー!起きなさーい!ご飯できてるよー!」
お母さんの騒がしい声ではっと目を覚ます。時計を見ると、もう七時を回ってる!
「続、起きて。もう七時」
「んん‥‥‥もう少し‥‥‥痛いの嫌‥‥‥」
続は寝ぼけ眼で意味不明なことを呟く。痛いの嫌ってどういうことだろう。
虚な目に私を写して‥‥‥はっと我に返った。
「‥‥‥おはよう、祈」
続はそれだけ言うと、さっさと部屋を出て行った。本当にさっきの、どういう意味なんだろう。
「祈ー!遅刻するよー!」
「あっ!」
私は布団を跳ね除け、さっさと制服に着替えた。リボンを結びながらリビングに行くと、続はもう着替え終わり、パンをかじっていた。私もその隣に座り、パンをかじる。家から走って二十分、歩いて四十分、始業まであと一時間か。間に合うな、多分。
「ごちひょうはまでひた(ごちそうさまでした)」
「口の中のものがなくなってから言いなさい!」
「ひゃい」
お母さんに怒られて、もぐもぐごっくん、とパンを飲み込む。顔を洗い歯を磨き、準備を整えるともう始業まで三十分!急がなきゃ!
「続!行くよ!」
「う、うん」
続はもたもたと靴を履いている。靴紐がうまく結べないようだ。
「もうっ!続早く!」
「ごめん‥‥‥」
ようやく結べた続は立ち上がった。
「続?走って行くの?」
お母さんが、私の続へのイライラした声を聞いたのか、リビングから顔を出した。
「うん、大丈夫」
ガチャリと玄関の戸を開け外に出る。始業まであと二十五分。走らないと!
家の前の、ダラダラと長い坂道を全力で下る。右に曲がって人気のない道を全力で駆け抜ける。続も必死についてきている。そしてまた右に曲がり、今度は少し大きい道に出た。この道を左に曲がると確か、五月の家があるはずだ。横断歩道で立ち止まり、息を整える。ちらほらと同じ制服を着た生徒が、同じように走っている。時計を出して見ると、あと十分。この調子なら間に合う。続、大丈夫、そう問おうと振り返ると、青白い顔をした続が胸を押さえ、うずくまっている。
「続?」
次の瞬間。バタリ、と地面に倒れていく続が、スローモーションで、見えた。
「‥‥‥続?」
同じように信号待ちをしていた会社員や同じ学校の生徒、高校生がわらわらと集まり始めていたが、私はどうすることもできない。
「水羽!」
聞き慣れた声が聞こえ、振り返ると、五月だった。寝坊したのだろうか、頭の後ろが跳ねている。
「誰か、救急車を!祈、俺学校行って先生呼んでくるから!お前は水羽についてろ!」
「う、うん」
五月に指示されるがままに私はカバンを投げ捨て、続のそばに腰を落とす。
「続、続!」
「揺らしたらダメだ」
近くに立っていたうちの学校の男子生徒が、私の腕を掴んで止める。そうだ、頭を打っているかもしれないから無理に動かしたらダメだって、保健の授業で習ったはずなのに。緊急事態になると、冷静に判断ができなくなってしまう‥‥‥!私はぐっと押し留め、名前を呼ぶことすら出来ずに、苦しそうに顔を歪めている続の横顔を、じっと見つめていた。それからすぐに、担任の先生が五月と共に走ってやってきて、連絡を受けたお母さんも急いでやって来た。そして、近くにいた会社員が呼んでくれた救急車もやってきて、続はあっという間にたんかに乗せられ、救急車の中に消えて行った。
お母さんも救急車に乗って行ってしまった。私には何も言わなかった。どうなったの、とも、なんとも。
救急車が去っていくと、その場にいた人たちはばらばらと紐を解いたように散らばっていく。
「水羽、どうする?学校行く?休む?」
担任の先生は優しく私の肩に触れた。
「‥‥‥学校、行きます」
帰っても、続を心配しながらたった一人で寂しい家にいなければならない。学校ならば、真麻がいる。先生がいる。五月もいる。他にも、友達がいる。
「‥‥‥そうか」
お母さんは多分、続が倒れた理由を知っていた。
『続?走って行くの?』。どうして私もいるのに、続にだけ問うたのか。私だって寝坊してあんな時間に家を出たのなんて初めてだった。寝坊はしたことはあるけれど、せいぜい歩いて間に合うくらいの時間だった。
そして、『痛いの嫌』という続の言葉。
体育の授業は欠席する続、そしてそれを責めない体育教師。
頑なに部活に入ろうとしなかった。
そして時々帰ってくるのが遅かったお母さん。土日に父母そろって家を開けることも少なくなかった。この前、続と二人で出かけたこと。
苦しそうに顔を歪めてうずくまっていく、スローモーションの映像、青色を超えて土気色になった頰。
今までの胸の不快感が全てつながる。
——‥‥‥もしかして‥‥‥!
「祈、一緒に学校行こう」
五月はそう言って私の隣に並んだ。先生は授業があるからと、走って戻って行った。今日は特別遅刻として認めてもらえるらしい。
五月は何も言わず、いつもよりゆっくり歩く私に合わせて歩いてくれた。
私は下を向いて歩いていた。何も言えなかった。ありがとう、とも、ごめんね、とも。
こんなこと、誰にも言えない。気がついてしまった。お母さんもお父さんも、多分先生たちも知っていたこと。でもそれを、私に教えてくれなかったのには、何か理由があったはずなのに。知ってしまったんだ、気がついてしまったんだ。
続が病気だということに。
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