第4話
「い、いのりん‥‥‥?どうしたの?」
「あ、おはよぉ、真麻」
「いや‥‥‥おはようじゃなくて‥‥‥お手洗い行こう」
真麻は登校してきた私のカバンをポイって捨てて、思い切り引っ張って近くのお手洗いに連れて行った。
「はい、これ。目に当てて」
「‥‥‥?」
真麻が差し出したのは、コットンだった。
「ママの、間違えて鞄の中入っててさー。バレたら怒られるけど。本当は冷やしてあっためて‥‥‥って繰り返すのが一番いいんだけど‥‥‥これしかないから」
ん、と濡らしたコットンを私の目に当てる。ひんやりして気持ちがいい。
腫れぼったかった目がだいぶ落ち着いた頃、登校時間の予鈴が鳴った。あと五分で遅刻だ。急がなきゃ。
「真麻、ありがとう」
「うん、腫れも引いたね。これで続ちゃんとも五月とも顔合わせられる!」
連れ立ってトイレを出ると、急いで教室に向かう生徒の波に乗って行く。
「—— いのりん」
後ろから声をかけられ、振り返ると、立ち止まった真麻だった。
「無理しないでね」
その声は、どこまでも優しく、そしてどこまでも穏やかだった。
「ありがとう」
私は笑った。少しぎこちなかったかもしれなかったけれど、安心して欲しくて、とりあえず笑った。
続は今日、後ろから突っついてこなかった。昨日のことを、気にしているのだろうか。
「いのりん、今日は部活、お休みだって」
「‥‥‥」
「いのりん?」
「あっ」
ポケッとしてしまっていた私の前で、真麻はひらひらと手を振る。
「ご、ごめんね。うん、分かった」
真麻は少し、顔を歪めた。私は胸が詰まった。その表情を見るのが、辛かった。気遣われてる。そう思うのが、思われているのが、嫌だった。
ふと、教室を出ようとする続と目があった。一瞬、ほんの一瞬、さっきの真麻と同じ顔をして——すぐに目を逸らして、教室を出て行った。
「なあ祈、水羽とけんかでもしてんの?」
「いやぁ、そういうつもりじゃ、全くないんだけど‥‥‥多分続も」
五月はふうんと言いながら首をかしげた。
「‥‥‥て、五月、なんでこっち来てんの?部活は?」
「今日は休み」
それは、休んだととったらいいのデショウカ。
「今は明るいし、大丈夫だって」
「世の中いろいろ物騒じゃん?やっぱ祈も女の子だしさ」
「男勝りだけどね」
ははっと私が少し笑うと、五月も笑った。そこは否定しろよ、おい。
「まあ、男勝りにしろ、力じゃ男には勝てないからな」
「むっ!前は腕相撲、私の方が強かった」
「今は俺の方が強いがな」
むむっ!最近勝負してないからわかんないけどさ!
「じゃあ、明日勝負だよ!手加減なしだよ!」
「負けても知らないぞ」
五月はははっと高笑いする。つられるように、私も笑った。
「うん、そっちの方がいい」
「え?」
「祈は深刻そうな顔してるより、笑ってる方が断然可愛いから」
「‥‥‥っ!」
頰に熱を感じる。いや、そういう意味じゃないから!知ってるから!
—— と、突如、両頬をつままれる。びょーんと伸ばして縮めてを繰り返す五月。
「い、いひゃいっへ(い、いたいって)!」
私は涙目で五月の腕を掴み、引き剥がそうとするけど手を離してくれない。
「へへっ」
五月はようやく手を離した。頰がじんじんする。
「もうっ!じゃあね、五月!」
私は五月に背を向け、玄関扉に手を伸ばした。
「おう!」
五月は元の道を歩き出した。その背中を、今日は見届けず、家の中に入る。
頰がすごく痛かった。だけど胸は、すごくほかほかしている。きっと五月は、元気を出せという意味でやったんだと思う。
その優しさが、なによりも嬉しかった。
——ありがとう、五月。
頰が緩んでいるのを感じる。手を当ててみると、引っ張られた痛みなのか、触られた恥ずかしさなのか、頰が熱を持っている。私は一度、パチンと頬を叩き、部屋へ入って行った。
夜遅く。そろそろ寝ようかと、広げていた勉強道具を片付けていた頃だった。ちなみに、ほとんど勉強はしていない。広げていただけだ。
コンコン、と控えめにドアをノックする音が聞こえた。お母さんだろうか。
相手は私の返事を聞かず、ゆっくりとドアを開ける。
「‥‥‥続」
寝たと思っていたのに。よく見ると、手には枕を抱えている。ここで寝るつもりなのだろうか。
「一緒に寝ても、いい?」
どうしてこうなったのだろうか。
シングルの小さいベッドに、続と背中合わせに並んで寝っ転がる。
なるべく動かないようにしていると、慣れない姿勢で体が痛い。私は普段、寝る前はかなり動くタイプなのだ。寝るまであっち向いたり、こっち向いたりを繰り返す。‥‥‥あ、いや、寝相も悪いのだが。続は寝相がいいのだろうか、さっきからちっとも動かない。尊敬する、ガチ系で。
パタン
隣の寝室から、ドアの閉まる音が聞こえた。お母さんとお父さんも、もう寝たようだ。続は静かに目を閉じている。眠ったのだろうか。
私ももう寝よう。そう思い、目を閉じた。
「いのり‥‥‥」
続の、涙ぐんだような声が聞こえた。かすかに背中が震えている。
「ごめんなさい‥‥‥無神経なこと言って、ごめんなさい‥‥‥」
鼻を啜るような音が聞こえた。と、それまで動かなかった続がぐるりと私の方を向いた。きゅっと私の腰に手を回し、背中に顔を押し付ける。
「ごめんなさい‥‥‥」
私は何も言わなかった。何も言えなかった。私だけじゃなかった、苦い思いをしていたのは、続も同じだった。その事実が、なんだか痛かった。自意識過剰だったような気さえした。
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