(その42)
浮多郎が芝居小屋にもどると、忠兵衛の父親の孫右衛門が、けいせいの梅川の様子を見に新町の遊女屋にやって来る場に舞台は変わっていた。
舞台の袖から客席を見渡していると、二階席のお新と目が合った。
顔を強張らせたお新は、必死に何かを訴えようとしていた。
お新の後ろに座る男を見た瞬間、浮多郎の背筋を悪寒が走った。
以前、暗に手を引けと泪橋にやって来た、蛇のような目をした男、・・・赤城の万次郎の一の子分の信吉にちがいない。
黒門町の甚吉親分が当てにならないので、女房のお新を連れて来たのが、かえってお新を危険にさらすことになった。
・・・悔やんでも悔やみきれないとはこのことだ。
浮多郎は、金縛りにあったように、動くことも考えることもできなくなってしまった。
・・・舞台は進み、身請けのために、公金の封印切りという大罪を犯した忠兵衛とけいせいの梅川が、心中への道行きをする場となった。
大向こうから声が掛かる中、信吉はやおら立ち上がると、お新を引きずるようにして二階席の奥へ消えた。
信吉のあとを追うようにして、万次郎と牢人者が続き、今になって紫頭巾を被ったお遼が、幸吉を従えてその後を追った。
あわてた浮多郎は、裏口を抜けて木戸口へ走った。
「たった今、席を立ちました。奴らは舞台がはねる一足前に小屋を抜け出すつもりです」
木戸口の横に立つ岡埜に言うと、うなずいた岡埜は傍らの小者を走らせた。
やがて拍子木の音が鳴る音とともに、見物客がぞろぞろと木戸口に出て来た。
ひと込みにまぎれ、お新を引きずるようにして、信吉が真っ先に現れた。
信吉の後ろに万次郎と牢人者が並び、さらにその後を紫頭巾の女と幸吉が何食わぬ顔で歩く一行の前に、突如、ひとりの若い侍が両手を広げて立ちはだかった。
「火付け盗賊改めじゃ。赤城の万次郎、神妙にお縄につけい!」
と大音声で口上を言う侍を見て傍らの岡埜が、
「あの馬鹿が!」
と舌打ちをした。
牢人者が、万次郎をかばうようにして身構え、刀の柄に手をかけて半歩踏み出した時、
「きゃ~っ」
万次郎の後方でお遼が声を上げた。
横から現れたもうひとりの侍が、お遼を抱きすくめて路地に引きずり込もうとした。
「お遼!」
万次郎が叫んだ。
そちらを追うか、火盗の侍から万次郎を護ろうか股裂きになった信吉はうろたえ、目をぎょろつかせた。
お遼のあとを追って駆け出した幸吉を横目に見た信吉は、お新の首に匕首を突きつけ、身構えた。
呼子が鳴ると、通りの前と後ろから、槍や熊手を手にした奉行所の捕り手たちがばらばらと駆けつけて、万次郎たちを取り囲んだ。
芝居の余韻に浸って木戸口を出た見物客たちは、捕物の見物などはまっぴらごめんとばかりに、蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまった。
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