にせ写楽枕絵奇譚(その40)

夜明けとともに、お新を伴って日本橋葺屋町の桐座に向かった浮多郎は、座頭に話をつけて、木戸を開ける前に、女房のお新を真っ先に二階席に座らせることができた。

さすがに楽日とあって、早朝にもかかわらず、木戸を開けたとたん、見物人はわれ先にと殺到した。

浮多郎は、木戸番の背後に立って、客ひとりひとりの顔を見ようとしたが、客は塊になってなだれ込んだので、とてもその暇はなかった。

やむなく、役者の出入りする裏口から楽屋に回り、舞台の袖の幕間から、早くも満員札止めになった客席を見渡したが、紫頭巾の女は見当たらなかった。

そうこうするうちに拍子木とともに幕が開き、演目一番目の『神霊矢口渡』がはじまった。

二階席のお新と目が合うと、お新も首を振った。

向かいの二階席では、甚吉親分がさっそく舟を漕ぎはじめた。

三段目がはじまったので、浮多郎は木戸口に待たせておいた下っ匹の与太を、岡埜が待機する向かいの蕎麦屋に報告に走らせた。

すぐにもどった与太が、

「岡埜さまは、『先手組らしい侍がうろついている』と、おっしゃっていました」

と言うのに、

「先手組がどうして?」

とたずねると、

「きのうの夜おそく、本所で押し込みがあったらしいです。それで見回っているのではないかと・・・」

と答えたが、それ以上のことは岡埜に聞くしかなかった。


桐座の一番目の『神霊矢口渡』は、全部で五段の芝居だが、この秋興行では二段目と三段目だけを演じて幕が閉じ、休憩になった。

この演目は、いわば前座のようなもので、観客の目当ては、このあとの二番目の、近松の名作浄瑠璃『冥土の飛脚』を歌舞伎仕立てにした、心中ものの『四方錦故郷旅路』であることにちがいがなかった。

客席後方には立ち見の客もたくさんいたが、それでも木戸口には、客がまだ押し寄せていた。

めずらしいことに、お新が座る二階席の並びの席の三人ほどの若い衆が座を立った。

入れ替わるようにして、演目二番目の『四方錦故郷旅路』の幕が開く直前になって、商家の隠居風のなりの大柄な老人が、若い女と若い男ふたりと牢人者を従えてその席に現れた。

これは、芝居茶屋が手配した場所取りの若い衆が、客と入れ替わったと分かった。

鋭い目で客席を睥睨する隠居風の大柄な老人の後ろに隠れるようにして、若い女が座った。

季節外れの団扇を手にして顔の前にかざしていたので、若い女の顔はよく見えない。

それは、初夏に桐座が景気づけに贔屓客に配った、東洲斎写楽が描いた松本幸四郎の大首絵の団扇だった。

幸四郎は、このあと高麗蔵演じる忠兵衛の父親役で出るので、あながちまちがいではなかったが・・・。

女の横には、苦み走ったいい男がいた。

画帖を抱えているので、これは絵師の幸吉だろう。

その後ろに、蛇のような目をした若い男と、大柄な牢人者が座った。

やがて幕が開き、揚屋で丹波屋八右衛門が忠兵衛の悪口を言いふらす場がはじまった。

若い女は、団扇を膝に下して身を乗り出した。

・・・まちがいない。

あの四十八手本の女だ。

大泥棒の赤城の万次郎と並んで座るお新と目が合うと、お新はしきりにうなずいた。

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