(その38)
とっくに奉行所を引き上げたというので、浮多郎は、八丁堀の地蔵橋たもとの岡埜の役宅をたずねた。
「ついに現れやしたぜ」
浮多郎が三代目沢村宗十郎の話をすると、
「江戸市中にいるのは分かっていた」
岡埜は、読みさしの黄表紙から顔を上げずに言った。
「その茶屋の女将は、どんな男だと?」
「へい、なりは隠居のようで、大柄ながら鳶のように身軽で、目つきの鋭い男だと」
それを聞いた岡埜は、黄表紙を放り出し、浮多郎と向き合った。
「都座に現れた女は、やはり、四十八手本の女のようです。絵師の幸吉も用心棒の牢人者もいっしょです。奴らは、うまく逃げおおせたと安心して、江戸市中にひそみ、芝居見物としゃれこんだのでしょうか?」
「この大泥棒の赤城の万次郎は、関東近縁で怪しまれないように静かに暮らしていた。目をつけた大店に手下を送り込んで二三年馴染ませてから、手引きをさせて押し込み強盗を繰り返す。手堅いやり方だが、いったん江戸の暮らしに慣れて、しかも妾なんぞも抱えちゃあ、今さら、田舎暮らしもできねえだろうよ」
と、岡埜は、この大泥棒の暮らしぶりを見て来たように言った。
「ということは、これからも芝居見物などをするということですかい。・・・いや、ちょっと待ってください。大立者が出演する秋興行が終わると、九月興行までお休みです。都座もおとといが楽日で、河原崎座もとっくに終わっていて、あとは桐座だけです」
「芝居好きな奴に聞くと、いったん芝居見物に凝りはじめると病みつきになって、何度でも通って見たくなるらしいな」
「ええ。・・・桐座の近松の浄瑠璃を元にした『四方錦故郷旅路』は、高麗蔵の忠兵衛と富三郎のけいせい梅川の道行が評判で、大御所の幸四郎も出ています。現れますかね?」
浮多郎が問いかけたが、岡埜は黙って宙を睨んだままだ。
桐座は、病人が出たとかで初日が遅れ、その分楽日が延びていたが、その楽日まであと五日だった。
赤城の万次郎が、妾を連れて桐座に現れるかどうか、岡埜は半信半疑だった。
それで、奉行所の捕り手を動員することは憚られた。
じぶんは小者を従えて葺屋町の芝居茶屋の二階の窓際に陣取り、浮多郎と黒門町の甚吉親分を桐座に張りつかせた。
もっとも、万次郎の妾が、紫頭巾で現れるか定かではないので、甚吉親分に四十八手本を渡して女の顔を覚えさせたが、親分にとっては、これはとんだ眼福だった。
甚吉親分には、舞台寄りの二階席から客席を見張ってもらい、浮多郎は木戸口あたりを張った。
・・・それで、四日が過ぎたが、女は現れなかった。
緊張感のなくなった甚吉親分は、二階席で舟を漕ぐ始末だった。
いよいよ明日が楽日という夜、浮多郎は女房のお新に訳を話して、甚吉親分の真向いの二階席に座ってもらうことにした。
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