子猫日和 完結

@nobuo77

第1話

 埋葬して半年しか経過していない遺体は、腐敗の途中だろう。どんなことがあっても、そんな義父の姿は見たくなかった。


 友子が墓地に到着したのは、午後五時を過ぎていた。アルバイト先の事務所に立ち寄ったら、所長から、今日中に本社へ提出する書類の作成を頼まれた。参照する図面が結構多かったので、時間を食った。


 もう美紀は帰っただろうとあきらめ気味で駐車場に来てみると、夏のきびしい残照を避けるようにして、桜の木陰で美紀の軽自動車が赤い車体を光らせていた。

 義父の遺体が埋葬されてる墓所は、丘の南西部である。墓地の奥まった場所で、あたりには古い墓石が多い。


 友子は義父の墓に通じるやや広い道から、一本脇の細い道を進んだ。密集した墓石に注意深く身をかくしながら進めば、四、五メートル先まで近づいても、見つかる心配はなかった。この辺り一帯は、大昔、入り江の中州だったところで、いまだに砂地のままだ。

あたらしい埋葬者がでて、墓穴を掘っていると、貝ガラや軽石が出るという話しを、友子はこちらに嫁いできてから、聞いた記憶があった。


 季節風が吹きつける側の墓石は、砂が流されて基底部が露呈している。道々、茂りはじめた笹竹の中で、ヒルガオの薄桃色の花が風にゆれれていた。

 友子は歩行を気にすることはなかった。目の粗い砂が、足音を吸収してくれる。海岸の砂浜を歩いている感触だった。


 前方にうす紅色の半袖ブラウスにジーンズ姿の美紀が後向きで動いている。時々、しゃがみ込んで、墓石を観察しているようだった。

 友子は美紀のいる場所から、五つ手前の墓石のかげに身をかくした。耳をすませば、息づかいまで聞こえてきそうな距離だった。

 美紀が百円ライターで、線香に火をつけて手を合わせ、しばらく瞑想している。若いのに、今時珍しい律儀さだと、友子は見とれていた。


 どうやら美紀は、ここへやって来て、そんなに時間は経っていないようだった。友子の家を出てから五、六時間が経過している。 こんな時間に来るのは、あれから一度学校に行って、その帰りに立ち寄ったのだろう。

「ニャアー」

 美紀が墓前で立ち上がろうとしたとき、か細い猫の泣き声が聞こえてきた。友子は気のせいだと思った。敏感になりすぎている。

 どうやら美紀も同じ気持ちのようだった。戸惑った表情をしながら、周囲を見渡している。

「ニャアー」

 今度は美紀が二、三歩、歩きはじめたところで、もっと鮮明な泣き声が聞こえて来た。友子は全身に鳥肌が立った。


 美紀が足をとめた。先ほどよりも更に注意深く、周囲を見わたしている。

 午後六時前になっても、強い日差しが墓地全体を照らしている。焼けた砂の匂いが鼻をさす。

「お染……」

 美紀は墓前に引きかえしてきて立ち止まり、墓石に語りかけている。

「ニャアー」 

「閉じこめられているの?」

 美紀の生温かな声が聞こえて来た。

「ニャアー」

 どうやら猫の泣き声が、墓石の下から聞こえて来ることに、美紀は気づきはじめているようだった。


「どうしてそんな所にいるの」

「ニャアー」

 美紀が肩に下げていたバックから、携帯電話を取り出す様子が、背中越しに見える。

「美紀です。お染はやっぱりお墓の中にいるようです」

 友子には美紀の興奮した声が、はっきりと聞こえてきた。

 直感的に夫にかけているのにちがいないと思った。友子の位置からは、美紀の横顔しか見えないが、高揚しているさまが想像できた。


「あなたが教えてくれたように、スコップと懐中電灯を用意してきました。待っています。早く来てください」

 美紀の声は一段と興奮している。

「馬鹿みたい」

 女の子一人で墓石の下を掘りおこすことが出来るとでも思っているのだろうか。友子は思わず笑い出しそうになった。

 このあたりの地層は、海岸性砂礫である。いわゆる砂浜の砂と同じ性質で、さらさらしたアリ地獄を掘りあげるようなものだ。無駄な挑戦である。


 美紀の携帯電話での話しぶりからすると、夫がスコップで墓石の下を掘るのを提案した様子だった。二人には友子の知らない親密さが感じられた。夫はお染の件で、何か具体的な話を美紀にうち明けている。

「あのころ、子供の産まれないのを言い争ったことがあった」

 友子は若い美紀と夫との関係を想像しながら、半年ほど前に夫婦二人が、ちょっとしたきっかけで言い争った場面を思い出していた。


「タクシー運転手は体力も精力もすり減らす。それにお前は、若い頃、重機やダンプカーを乗り回して、男みたいな仕事をしていたこともあるのだろう。振動で子宮が変形してしまったんだ。不妊はそのせいだと思うよ」

 それは産まれて間もないお染を義父が拾ってきた晩のことだった。

「何をそんな馬鹿なことを言っているのよ。あなた、子供欲しくないの。結婚して五年、そろそろ義父も孫の顔が見たいはずよ」

 いつの間にか夫婦に子供が出来ない話に進展して、最後にはお互いがののしりあうような口論で終わっていた。その後は、表面的にはいままでと変わらない風に見えたが、友子と夫の心の間には、すっきりしないものが残されたままになっていた。


 友子は夫があらわれる前に、本当にお染がいまも棺桶の中に閉じこめられているのかどうか、確かめておきたいと思った。ぐずぐずしていたら、やがて夫がかけけつけてくるのは明らかだ。

 今日の彼は遅番出勤になっていた。当たり前に勤務すれば、午後十一時が終業である。

 しかし、先ほど美紀がかけた携帯電話で、早退してここへ駆けつけてくることは確実だろう。友子は美紀に気づかれないように身をかがめて、いったん工事事務所の方に引きかえして行った。


 敷地内の一角に小型ユンボがおかれている。つい先日、友子が敷地内の荒れ地を整地したあとに駐車したままの状態だった。エンジンキーは操縦席の下にしまってある。

 すっかり夕闇が迫っていた。あたりの沈黙の中で、エンジンが震えた。友子は小型ユンボを操作しながら、資材置き場のせまいすき間から、ゆっくりと丘の墓地に登りはじめた。


「手伝うわ」

 墓石と墓石の間のせまい道を、器用にユンボを操縦しながら美紀のそばに近づくと、エンジンのスイッチを切って、運転席から身をのりだすようにして、友子が言った。

 先ほどからずっと、ユンボが近づくのをおどろきながら見つめていた美紀は、操縦しているのが友子だと知って、目を見はった。


「あのう……」

 スコップで墓石の下を掘りはじめていた美紀は、動揺しながらやっと口を開いた。

 友子は美紀の戸惑いには無関心を装って、積んできた一枚の足場板を隣の墓石に立てかけた。

 再びエンジンキーのスイッチをひねった。手元のレバーを引くと、墓石の上でアームが生き物のように自在に動きだした。


 友子はアームの先端についているバケットで、ゆっくりと墓石を動かした。土葬式の墓石は、火葬式のように土台がコンクリートやモルタルセメントで固定されていないので、移動は簡単だった。すぐに、美紀の目の前に畳一枚分程の空間があらわれた。その手際の良さに、美紀は見とれている。


「ご存じだったんですか」

 作業が一段落し、エンジン音が静かになったのを見定めて、美紀が口をひらいた。

「何を?」

 と友子は美紀の顔をのぞき込んだ。

「さっきも、ここからお染の泣き声が聞こえてきたんです」

 美紀は表情をゆがめていた。いまにも泣きだしそうで、声がふるえている。

「そんな馬鹿な。棺桶の中にお染がいまも生きていると信じるの」

「でも、泣き声が‥」

「いまからほりあげて確かめましょう」

「私、信じていません」

 美紀の声に必死が感じられる。


「泣き声を聞くまでは、私も信じなかったわよ。通夜にお棺の中に閉じこめられて、それからずっと生きつづけているなんて、誰が信じる」

 エンジンの音に負けまいとして、友子の声は自然と大きくなっていた。

「本当にお染、お棺に閉じこめられているのですか」

「そうでしょう。そうでなければあなただって、スコップでここを掘りおこしたりはしないはずよ」


「そうですね……でも、どうして、お棺に入ったのかしら」

 友子には美紀がまわりに誰も自分をかばってくれる者のいない不安を覚えて、ふるえているように見えた。

「あなたがこっそり入れたんじゃないの」

 友子の意地悪そうな笑いに、美紀は身を固くした。彼に早く来て欲しいと願っているのだろう。


「いいえ。そんなことはしません」

 エンジン音をさえぎるように、ふるえる美紀の声。

「誰かが、棺桶ののぞき蓋を閉めわすれたのかもしれない。きっとお染は、そののぞき穴から中に入りこんだのよ。あの晩、あなたがお染を連れてこなければ、こんな事にはならなかった」

 友子は自分が掘りあげる砂の量が徐々に多くなり、それにつれて、美紀の表情が恐怖に変わっていくのを、内心に笑いを浮かべながらながめた。


「お染が通夜に、棺桶に入ったとしたら、もう半年も経っている。今頃、中から泣き声が聞こえる?不思議なこともあるわね」

 友子は余裕を感じていた。砂をすくいあげるバケットの先端に向けていた顔を、美紀へ向ける。美紀は目を見開き、無言で首をふった。


「生きられるはずはありません」

「空気がなくては生きられないし、食べ物がなくては飢え死にするだけ」

 友子の声がひびく。


 穴は次第に深くなっていた。そろそろ棺桶に到達するかも知れないと、美紀は感じているようだ。腰をひきながらも、穴の中に目を向けている。

「ここは大昔、海底だった所よ。見てごらん、砂、サラサラしているでしょう。砂の密度が荒いから、少しは空気の流れがあるのよ。墓石にそって、隙間が出来ているのかも知れない。片手にすっぽりおさまるぐらいの子猫だから、酸素の量もたいして必要ないと思うわ。食料は死んだ義父の体内から溶け出した、エキスをちびちびなめて」

「やめて下さい!」

 美紀は耳を塞ぎながらさけんだ。


 走ってこの場所から逃げだす素振りを見せた。しかしどうやら、足が痙攣したようだ。

あきらめるように砂の上にしゃがみ込んでしまった。

(燃料を補給して下さい。燃料を補給して下さい)

 ユンボが先ほどから警告メッセージをくり返している。運転レバー横の、小さな赤色灯が点滅をはじめた。


「燃料が切れたみたい。もうちょっとで、お棺に届くのにね」 

 友子はエンジンのスイッチを切り、操縦席から降りてきた。

「事務所に燃料取りに行ってくる」

 そう言ってすぐに背中を見せた。

「私、取ってきます」

 慌てて美紀は二、三歩あとを追った。

「いいわよ。あなたでは、どこに置いてあるか分からないから。あっそうそう、これ、あなたに渡すの忘れていた。この前、掃除していたら畳の上に落ちていたの。我が家にたずねてくる茶髪って、あなたしかいない」

 友子はそう言いながら、腰につけている小型のポシェットから二、三ヶ月前、仏壇のある和室に掃除機をかけているときに見つけて取っておいた、ティッシュにくるんだ髪の毛を差しさした。


 美紀ははじめ、なんのことか理解できないようだった。手わたされた数本の髪の毛を、夜の薄明かりに透かしながら、じっと見つめている。

「それ、あなたの髪よ」

 美紀が力なさそうに髪の毛を手の中にしまい込むのを見守りながら、友子は言いつづけた。

「夫はね、あなたが家に訪ねて来てくれたことを、一度も話さなかった。その茶髪を見つけて、私が夫に問いただしてはじめて、美紀さんが来たことを認めた。あなた達、私の留守の間に何をしていたの」

 高速道路の向こう側の雲間に、満月に近い月が昇ろうとしている。風が強いらしい。ちぎれ雲が次々に月をさえぎりながら流れさっていく。

 美紀はいま、自分が手にしている頭髪の意味をようやく理解したようだった。頬を少しふるわせ、うつむいている。


「私たち夫婦にまだ子供がいないのをあなたは知っている?。子供の出来ない原因がどちらにあると思う。義父が生きている間は彼にあった。義父が子供の頃いじめた子猫の呪いが、彼に不妊という形であらわれた。美紀さんはまだ若いから、現代の世の中にそんな迷信じみたことがあるなんて信じないかも知れないけれど、考えてみれば、こうやってお墓参りすることも迷信の一つだとは思わない。お墓参りすれば心は落ち着くし、目には見えなくても、いろいろな災難から守られている。それと同じで、義父が捨て猫のお染を拾ってきて育てる気持ちを持ったことで、子供の頃にいじめた子猫の呪いは解き放された。通夜に美紀さんはお染をつれてきたけれど、それは夫の不妊をとき放す先導役だったのよ。結婚以来、私たちの間では一度も感じなかったのに、あなたと関係を持とうとしたときに、夫は妊娠をおそれた。ただあなたはまだ若いから、愛しあったあとに、抜け落ちた髪の毛をきれいに始末するだけの気配りがたりなかったのね」


 友子は手にスコップを握ったまま言葉を失っている美紀を見て、薄ら笑いを浮かべた。どうやら友子の予感は的中したようだった。戸惑い、驚き、不安などがまざりあった美紀の表情は、幼く感じられた。かわいた唇を半開きにしながら、苦しそうに息をしている。これと同じ表情をどこかで見かけたことがあると友子は思った。まるですっぽりと芯が抜けたような、色褪せた表情になってしまっている。


「でもね、あなたのおかげで夫が不妊の呪いから解き放されたことを知ることが出来た。その時夫は、妊娠をおそれて避妊具を使ったわよね」

友子の視線に耐えかねたように美紀は、かすかにうなだれた。

 友子は再び歩きはじめていた。

「悔しいけど、これであの人ともう一度やり直すことも出来そう」

 最後には友子の声は涙声に変わってた。

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