第2話 黒猫の名前

「姫様。お待たせいたしました」


 サクラコがくるりと振り向くと、セイランが立っていた。

 飲み物などの準備ができたようだ。


 ふたりは、護衛騎士や他の側仕たちが待つ方へと歩いていく。

 みんなのいるところまで来ると、全員が並んでお辞儀をしてサクラコが席に着くのを待っている。

 

 サクラコの視線の先には、まるでこれから屋外パーティでもおこなわれるかのような光景が広がっていた。

 土属性魔法で作成したのだろうか。大小のまあるい石のようなものが並んでいる。

 大きな石にはワインレッドのクロスがかけられ、小さな石にはモスグリーンの敷物が敷かれている。


「さ、姫様はこちらへ」


「ありがとう。セイラン」


 セイランに促されて、サクラコは綺麗な花柄の敷物が敷かれた石に腰かけた。

 テーブルのような形をした大きな丸い石の上には、ジュースグラスとお菓子が準備されている。


「失礼いたします」


 側仕のひとりが、グラスにジュースを注ぐ。

 サクラコの好きな果実の香りが、ふわっと彼女の鼻腔をくすぐった。


「アプフェルの香り……」


「姫様、どうぞ召し上がってください」


 セイランがお菓子をサクラコに勧める。お菓子はクッキーのような焼き菓子。

 まあるいかたちをしたものや四角いかたちをしたもの、木の葉や星のかたちを模ったものまである。

 サクラコは、木の葉を模ったお菓子を手に取り口へと運んだ。サクサクとした歯ざわりの後に、甘い香りが口の中いっぱいに広がっていく。

 そして、グラスを手に取りジュースをひとくち口に含んだ。


「とても美味しいです。この焼き菓子は素敵ですね。見てるだけで、楽しくなってきます」


 実際、彼女は、この焼き菓子と飲み物のおかげで、先ほど兄から受けたおぞましい出来事を忘れる事ができた。


 大好きなアプフェルの香りと、美味しい焼き菓子に舌鼓を打っているだけで、幸せな気持ちになれる。


 ――あら?


 サクサクと焼き菓子を食べていると、森のなかから一匹の黒猫が出てくるのが見えた。


 黒猫はしっぽをぴんと立てて、とてとてとした足どりでサクラコの方へと近づいてくる。


 ――こんなところにネコ?


 黒猫は側仕たちの間を縫うようにしてサクラコの足下に来ると、ニィとひとつないて彼女の足に顔や身体を擦り寄せてきた。特有のふあふあした毛が足を撫でる感触に、彼女は思わず笑みを溢した。


「ふふっ。くすぐったいわ。貴方、ひとりなの?」


「っ!? このネコ、いったいどこから?」


 セイランは、サクラコの足にすり寄る黒猫を見て、慌てて追い払おうとする。


 ――? 森の方から来るのが見えましたけど、セイランたちは気がつかなかったのかしら?


 はて?とサクラコが首を傾げていると、セイランが黒猫の首根っこをぐにっと掴んでいた。


「セイラン。いいのよ」


 そう言ってサクラコはセイランを制止すると、両手で黒猫を彼の両脇の下から抱き上げた。


「貴方、こんなところでうろうろしてると、お兄さまたちの矢に当たってしまいますよ」


 彼女は、抱き上げた黒猫の顔を見ながら微笑んだ。

 サクラコの顔を見ながら、黒猫はペロッと舌で口の周りを舐めた。

 彼はされるがままといったカンジで、その身体はだらしなく伸びてブラーンとなっている。


「貴方も、焼き菓子はいかが?」


 赤ん坊にするように黒猫を抱っこして、サクラコは焼き菓子をひとつ手に取り黒猫の鼻先に近づけた。


 すると黒猫は、一度、見上げるようにしてサクラコの方を見てから、ふんふんと匂いを確めた。そして、はぐっと焼き菓子にかぶりつく。


「ふふっ。美味しいでしょう?」


 その様子を見ながら、サクラコはへにゃりと顔をほころばせた。


「ミルクは、あるかしら?」


 振り向いて側仕に尋ねると、


「お持ちいたします」


 すぐに、スープ皿に注がれたミルクが運ばれてきた。


「ミルクもどうぞ」


 そう言って、黒猫の前にそのスープ皿を差し出した。黒猫はサクラコの顔をじっと見つめると、スープ皿に注がれたミルクを舐めるように飲み始めた。


「貴方って、素敵な瞳をしているのね。……お月様みたい」


 ミルクを飲む姿を見ながら、サクラコは黒猫にそう囁いた。

 黒猫は、ぴこぴこっと耳を動かしながらぺろぺろとミルクを飲んでいた。


「そうだわ! あなたに名前をつけてあげる」


 その言葉を聞いているのか、聞いていないのか。黒猫は素知らぬ顔で、焼き菓子をはむはむと咀嚼している。


「……どんな名前が、いいかしら?」


 サクラコは、人差し指を唇にあて宙を睨みながら首を傾げて考えた。

 ネコに名前を付けるなんて初めてのこと。素敵かつ可愛らしい名前はないかしら?と思案する。


 やがて彼女は、ぱちんと両手を合わせて、きらきらした若葉色の瞳を黒猫に向けた。


「ルナ! 貴方の名前は、ルナ。どうかしら?」


 クッキーを食べ終わった黒猫は、顔を上げてサクラコを見ている。ぺろっと口の周りを舐める舌が、薄いピンクの花弁のようだ。


 そして黒猫は、彼女の言葉に応えるかのように、


 ニィ


 と、鳴いた。


「ふふ。気に入ってくれたみたい」


 サクラコは、セイランに微笑みを向けた。セイランは少しだけ困ったような表情を見せたが、諦めたように主に微笑み返した。


 それからサクラコは、黒猫ルナを抱っこしながら森のなかを散策したり、側仕たちと談笑したりして過ごした。

 彼女は、そもそも狩りに興味はない。弓や剣などを手に獲物を追う気なんてさらさらない。

 とりあえず、今日のイベントをやり過ごせばよいと思っている。


「……お兄様たちは、まだ獲物を追っているのでしょうか?」


 おそらく二人の兄たちは、時間を忘れて獲物を追っているのだろう。アマティなどは自分の能力を誇示するため、「大物」を狙って森のなかを駆け回っているに違いない。


 だが、彼らが帰ってくるのを待つ方にしてみれば、はっきり言ってヒマである。というか、最後まで付き合う必要もないのではないか?

 黒猫ルナを抱っこして、なでなでもふもふしながら、サクラコはそんなことを考えていた。


「王宮へお戻りになられるなら、私がアマティ様達にお伝えしてきましょうか?」


 護衛騎士のヴァイドが、そんな提案した。自ら伝達係を買って出るという。


 サクラコとセイランは、思わず顔を見合わせた。

 サクラコの護衛騎士であるヴァイドとハンスは、はっきり言えばヤル気のない護衛騎士である。

 というのも最近、サクラコにはある縁談が持ち上がっていた。まだウワサにすぎないのだが、ファンフィールド伯爵家に降嫁するというものだ。

 王宮から出て領主の息子に嫁ぐ王女の護衛騎士など、上昇志向の強い彼らにとっては閑職だ。そのためか護衛騎士となった当初から、いわゆる指示待ち人間。


 今のように、サクラコの意を汲んだうえで自ら伝達係を買って出るなど、これまでには無かったことだった。


「えっ!? で、では、ヴァイド、お願いいたしますね」


 戸惑いながらも、サクラコはヴァイドに伝達係を頼むことにした。

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