第3話 邂逅

 上座に用意された座布団へ、腰をおろした。平伏したままの頭を見て、木村はしばし困惑する。


 なぜ顔をあげないのか。泣いているのだろうか。

 そこまで思い、はっとする。そうだ、主君が声をかけない限り、家臣は顔をあげてはならない。以前は当たり前のように口にしていた言葉を、四年の時をへて声に出す。


「面をあげよ」


 その言葉にしたがい、ゆるゆると顔をあげた綾小路。片はずしに結いあげられた髪には白いものが目立つ。

 そり落とした眉のない顔は、四年前より確実にしわがふえていた。面をあげよと言われても、本来は主人の顔なぞ見てはならない。

 綾小路は木村を見ようとせず、目はふせたまま。厳格な礼儀作法を遵守していた。


「息災で何より」


 そう簡潔に声をかけた木村へ答えるように、綾小路は口を開く。


「お殿さまにおかれましては、無事のお帰り、祝着至極に存じ上げ奉りまする」


 少ししわがれた懐かしい声。しかし、『お殿さま』の言葉がおもはゆい。


「もう、余は殿でもなんでもない、一介のポリスの巡査だ。だから――」


 そこまで木村が言うと、綾小路は顔をあげ、きっと木村の顔をにらんだ。こういう顔をした場合、たいていそのあとお小言がきた。

 一瞬、木村は身がまえる。しかし綾小路の口からは、なかなかお小言が出てこない。


 綾小路は、木村の姿をしげしげと穴が開くほど見ている。姿というよりも、着物を。


「なんですか、そのお召し物は!」


 あきれ果て、信じられないとばかりに目を見開く、綾小路の様子を木村は不思議に思う。


「おかしいか? 別に汚れてもおらんし、くたびれてもおらんが」


 そう言って、木村は袖を広げ今日着ている、銀鼠色ぎんねずいろつむぎをあらためて見る。紬の長着と羽織、帯は黒の博多帯をしめている。特段、おかしいところはないと思うのだが。


「町人が着る紬をお召しになるなんて。女中は何をしておるのです。このような着物を用意するなど、言語道断」


 けしからんと、顔を真っ赤にして怒る綾小路の見て、木村は吹き出した。


「さすが、着道楽な江戸城大奥の最高位であった筆頭老女、綾小路局あやのこうじのつぼねだな」


 たしかに、お殿さまであった四年前の木村なら、絶対に着ない装いである。

 大名は普段でも、おしや羽二重はぶたえの高級な着物を着ていた。


「笑い事ではございません。お殿さまのお傍にはべる女中を教育しなおさねば」


「女中などおらん」


 いくばくかの哀惜を噛みしめ、木村はほほ笑む。

 そんな木村を見ていられないのか、はっとしたように綾小路は目をふせた。


 函館で降伏してのちの木村の足跡を、綾小路が知らぬわけがない。

 共に脱藩した百名の家臣は半分にへり、錠をおろされたかごに乗せられ東京へ護送された。


 しばらく投獄され、一門(遠縁)の大名家にお預けとなる。

 死線をかいくぐってきた家臣と引き離され、そこで三年間幽閉された。


 そんな木村の境遇を、綾小路はどのような感慨で受けとめたことか。

 綾小路の唇を引き結んだうつむく顔から、木村は目をそらした。


 この老女は大奥を引退したのち、宿元(奉公人の身元引受人)であった木村の祖父をたより、西津藩の陣屋に住んでいた。


 もう引退した身。悠々自適な余生をおくればよいものを、森家の子供たちの教育係をしていた。


 まだ、後継ぎではなかった木村は陣屋で育った。母を早くに亡くした少年の頃、このババに礼儀作法を叩き込まれたのだった。


「今日は、ババに礼を言いに来たのだ。小田原で滞陣のおり、二百両を届けてくれただろう。まだ、礼を言っていなかった」


 陣屋を出陣するさい、綾小路は激励の言葉をかけてくれた。その言葉と共に綾小路は、木村へ軍資金をわたそうとした。しかし間に合わず、のちに行軍先へ二百両が届けられたのだ。


「礼にはおよびません。主君徳川家のおために立ちあがった忠宗さまへ、お役立ていただきたかっただけのこと」


「その金を無駄にしたかもしれんな」


 結局どんなにあがいても、慶喜公は政権を追われ、武士の世ではなくなった。しかし木村の自嘲は、すぐさま一喝される。


「何をおっしゃいますか。慶喜公はあの時点で、恭順の意をおとりになっていたにも関わらず、切腹を言いわたされかねない状況。徳川家も絶家の憂き目をみていたやもしれません。それを回避できたのですから、けっして無駄ではございません」


 かつて木村を厳しく躾けていた綾小路の威厳は、失われていない。

 どんなに世の中が変わろうとも、この人はけっしてぶれない。


 揺るぎないまっすぐな眼差しを見て、木村は若葉のころに出会ったあの姫を思う。傍若無人にふるまう木村を、臆するどころかまっすぐに見かえしてきた姫を。



 〜〜〜〜〜〜

閑話休題


 西津藩の解説


 木村の父は、藩主であったが早世していたので、幼い木村に変わり叔父が家督をついでいた。


 その叔父も早世した。後継ぎであった木村のいとこが、幼少のため、叔父のあとを十九でついだ。

 そして、木村脱藩後は弟が森家をついだ。





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