第2話 帰郷
低い山のふもとにあった、火事で焼けた西津藩の陣屋あと。そこには、何もなかった。夏の熱気の冷めたさみしい風が、草のおい茂る野原を吹きぬけていく。その前を通りすぎしばらくいくと、山へ続く石段の前で、木村は車夫に車をとめるよう告げた。
木村は人力車から降りそのまま石段へむかおうとすると、後ろから車夫に声をかけられた。
「旦那、銭もらってねえぜ」
その言葉を聞き、あわてて木村はきびすを返す。袂を探りながら、ぼそりとつぶやく。
「未だに、金を自分で払うのになれんな。まったく」
ふいにこぼされた木村の自嘲に、車夫は笑う。
「どこの、お大臣さまだよ。で、帰りはどうすんだ?」
帰りのことなど頭になかった木村は、顎を指でつまみしばし考えてから口を開く。
「ここで待っていてくれるか? 一刻(二時間)ほどで戻る。帰りも横浜駅まで乗せてほしい」
車体につるしていた竹筒から水を飲んでいた車夫は、口をぬぐい日に焼けた真っ黒な顔でニヤリと笑う。
「おう、いいぜ。おいらここで煙草でもふかして、待ってっから」
木村は軽く手をあげ、石段の下までいくと頂上を見あげた。まっすぐ伸びる三百二十五段ある石段。
子供の頃、数をかぞえながら何度も登った。最初の石段に足をのせると、草履の裏底からじゃりっと音がする。
余計なことを考えず、自分がたてる足音に集中しながら、一段一段ゆっくり登る。
足を進めるたび、木村の周りの温度が変わっていく。上昇する体温に反して、山の気温は徐々にさがっていく。
熱を冷ましてくれる、山の清涼な大気が心地よい。
下界をはなれ、一歩一歩近づく先は極楽か、はたまた……。
山門をぬけると、ひらけた視界の先には、そそり立つかわら屋根の堂々たる本堂。そこへ続く参道で、ほうきを持った老齢の寺男が落ち葉をはいていた。
木村が近づいていくと、足音に気がついたのか寺男は顔をあげた。途端、握っていたほうきをとり落した。
「久しいな――」
木村は寺男の名を言おうとしたが、さえぎられた。
「た、た、忠宗さま!」
悲鳴に近い声で言うと、木村をそこに置き去りにして、本堂の横の
「綾さま、綾さま! どちらにいらっしゃいますか。忠宗さまが、お戻りになられました!」
そう叫んで走る後ろ姿を見ていた木村は、吹き出しそうになる。寺男は急ぐあまり、足がからまり今にも転びそうだったのだ。
「一応、歓迎されているということかな」
そうつぶやくと、寺男のあとを追って庫裡へ歩いていった。
ひんやりとした誰もいない玄関に入り、立ちすくむ。
勝手知ったる場所であるが、案内もなしにあがり込むわけにはいかない。土間で木村は、所在なげに風呂敷をぶらさげ、立っていることしかできなかった。
しばらくすると奥からはげあがった頭の僧侶が、先ほどの寺男を引きつれ、あわただしく出て来た。
しわの多いその顔は必死に涙をこらえているのか、しわがより深く刻まれていた。
黒光りする式台からとんと、土間に降りると、木村の足元でがばりと膝をつき平伏する。
「お帰りなさいませ。あなたさまのご帰還、一日千秋の思いでお待ち申し上げておりました」
木村は腰をかがめ、僧侶のふるえる肩に手を伸ばす。そして、ねぎらうように二度ポンポンと肩をたたいた。
その肩が、昔より薄くなっていることに、心がヒヤリとしたが何くわぬ顔で口を開く。
「久しいな
隆光と呼ばれた僧侶は、顔をあげ木村を仰ぎ見て言う。
「あなた様も、お変わりなく――」
先の言葉が続かない。飲み込まれた隆光の言葉の裏を木村は思う。
変わっていないわけがない。木村が領地であるこの地をはなれて四年。かつての大名は
共もつれずひとり風呂敷を抱え、菩提寺を訪れたことが、その落魄をもの語っている。
かつてはどんな私用でここを訪れようと、共を二、三人引きつれていた。
何もかも変わってしまった。この地も、隆光も、自分も。しかし変わったことをひとつひとつ、あげつらう必要はない。ただおたがいの嘘に、だまされればよいのではないか。
四年の空白を埋めるように、木村はかつての威厳をとり戻し言葉をつむぐ。
「
木村の昔を彷彿とさせる言葉に、隆光はぱっと顔を輝かせた。
「綾さまは、書院でお待ちでございます。さっ、どうぞどうぞ」
ようやく木村は草履をぬぎ、式台にあがる。手ぬぐいで涙をふいている眼前の寺男へ、風呂敷包みをわたした。
「東京で人気の大福だ。みなで食べてくれ」
木村の言葉に、目からまた滝のように涙が流れ落ちる。
もう寺男は、涙をぬぐおうとしない。うやうやしく頭をさげ、木村から風呂敷を受け取った。
そんな、たいそうなものではないのだが。
心の内で独りごちつつ、隆光の案内で書院へむかう。
開け放たれた書院の中には、上座にむかい平伏して木村を待つ女性がいた。
顔は見えずとも、誰かはわかる。木村の心は懐かしさでいっぱいになり、苦しく思うほどだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます