姫君と侍女は文明開化の夢をみる~番外編

澄田こころ(伊勢村朱音)

木村巡査の休日

第1話 道程

 木村冬吾きむらとうごは秋の非番の一日を、汽車にゆられ横浜へむかっていた。明治五年九月に新橋から横浜まで開通した鉄道は、イギリスから技術と資金を援助され建設された。

 横浜まで徒歩ならば、丸一日かかるところを五十分ですむ。


 まさに、文明開化の象徴のような汽車。

 本来ならこんな新政府の権勢を誇示するようなものに乗りたくない木村であるが、いたしかたない。

 休みは一日しかないのだ。窓枠に羽織のたもとを押さえ、肘をつく。


 汽車はちょうど芝浦あたりにさしかかったところ。


 ガラス窓の外は一面の海だった。このあたりは、海の上に築かれた土手の上を汽車がいく。

 まるで、汽車が海の上を走っているような不思議な光景が続く。


 秋晴れの空をうつした青い海。美しいが心など踊らない。むしろ目的地に近づくほど木村の心は、湿気をおび重く沈んでいく。

 飛ぶように後ろに流れていく景色を忌々しく思い、のんびりとかごにゆられていく、昔の旅程をなつかしく思い浮かべていた。


 目を閉じれば、先ぶれの『下にい、下にい』という空を突き破る声まで耳によみがえる。その幻聴に切れ長の目をぱっと開く。

 自分はまだ過去を懐かしみ、過去によばれるような老人ではない。まだ二十五ではないか。そう自戒しながら、膝の上に置いた風呂敷包みを見おろした。


 中身は、ふたば屋の大福だった。あの上品な人が喜ぶかどうか。手土産など自分で買ったことがない木村は、それが気にかかる。

 余計なことは考えまい。今日はあの人に会いにいくだけだ。そう肝に命じ、もう窓の外を見ようとはしなかった。


 赤レンガづくりの横浜駅につき、駅舎から出ると、人力車の列をみつけた。

 汽車から吐き出される乗客たちをまっているのだろう。


 木村はその列に目を凝らす。なるだけ体力のありそうな、細身で体のしまった車夫に声をかけた。


「ちと遠いが、乗せてくれるか」


 車夫は、木村の顔をジロジロと見て言った。


「旦那、歌舞伎役者かい? えらく顔がいい」


 車夫の歯に衣着きぬきせぬ言いぐさに、木村は曖昧に笑うだけで答えない。車夫は無粋なことを聞いたと自省したのか、肩をすくめて行き先を聞いた。木村は薄い笑顔を引きしめ、わずかに唇を動かし行き先を告げる。


西津さいずまで」


「あっこまでなら、半刻(一時間)ってとこだな。いいぜ、乗りな」


 木村が乗り込むと車夫は軽快に走り出した。東海道をはずれ南下すると海沿いに出た。潮風に髪があおられ、細く長い指でかき上げ木村は、陽光きらめく海原に目を細める。


 無機質なガラス越しのながめより、なんとすがすがしい。久しぶりに見る海に、木村の湿気った心は幾分軽くなる。その軽くなった心の隙が、木村に歌を詠ませた。


 潮風にたなびく雲よ もろともに哀れと思え在りしふるさと

(潮風にたなびいている雲よ、私と一緒に昔の故郷を懐かしんでおくれ)


「なんか言ったかい?」


 木村は車夫に声をかけられ、はっとしたように自分の感傷を苦笑する。

 感傷にひたることなぞ、自分には許されない。それほどの決意を持ってこの地を出奔したのだから。そう木村は自省する。


「いや、ただ気持ちのいい海だって言ったのさ」


 それで納得したのか、車夫は前をむく。


「ところで、もう西津に入ってっけど、どこにいきなさるんで。おいらこの辺はあんま来ねーから」


「陣屋の近くにある、安祥寺あんしょうじという寺にやってくれ。道は俺が言う」


「あー、西津のお殿さんが住んでた陣屋か。あっこの陣屋はたしか火事で焼けて、何にもねえぜ」


「寺は焼けていない」


 きっぱりと断言する木村に、車夫は聞き返す。


「寺にいきなさるなら、墓参りか」


 長い道のり、黙って走ればいいものを。その方が楽だろうに。この車夫は人好きする性格のようだ。詮索するというよりも、木村に興味があるだけなのだろう。

 無視する気にもならず、木村は答えていた。


「違う。昔世話になった女人にょにんがそこにいるんだ」


 木村の言葉に車夫は前をむいたまま、はやすように口をはさんだ。


「さっすが、色男だねえ。女に会いにいくのか」


 下品なものいいだが、特段怒るわけでもなく木村の口の端はくっとあがる。このセリフを聞いたらあの人は何と言うだろう。憤慨するか、鼻で笑うか。

 五年前、木村へ激励の言葉を述べ、別れた時の毅然とした顔。静かな闘志を秘めた黒い瞳。その瞳に自分はどううつっていたか、ふと車のゆれに身を任せながら気になった。


「色男と言えば、旦那、西津のお殿さんのことご存じかい?」


 唐突に話し出した車夫の激しく上下する背中から、木村は視線をそらせ、「いや」と一言いった。

 しかし、車夫は木村が知らないというのに、この話をやめる気はないようだった。


「ここの森忠宗もりただむねってお殿さんは、すげーんだぜ。大名みずから脱藩して、新政府とやり合ったってんだ。おいら、逃げ腰のほかの譜代大名のケツを蹴り上げて、ここのお殿さん見習いやがれって言ってやりたかったぜ」


「ほう、そなたは徳川贔屓びいきだったのか」


「おう、おいら江戸から流れてきたんだ。譜代大名っつったら徳川の古くからの家臣だろ。それなのに、公方様をお守りしないで、新政府についた藩もあったじゃねえか。おいら歯がゆくて、鉄砲もってたら西津のお殿さんとこにはせ参じたかったぜ」


「それは、残念だったな。ぜひ参戦してほしかった」


 木村がそう言った途端、人力車の車輪が石を踏んだのか、車体が大きくゆれた。木村の体は一瞬宙に浮く。その尻がむずがゆくなる感覚が、全身に広がった。


「旦那、大丈夫ですかい?」


 木村の言葉は、車夫の耳に届いていなかったようだ。晴れやかな顔をして木村は車夫の背中を見つめながら、心遣いに感謝の言葉を述べた。


 石を踏んだことで車夫は慎重になったのか、もう話さなくなった。

 人力車の車上から道沿いに立つえのきの木が遠方に見える。見慣れた景色をのぞみ、目的地の寺はもうすぐだと木村は察した。

 あれほど、時間をかけて到着したいと思っていたのに、木村の声ははずんでいた。


「あの遠くに植わっている榎の木を右手に曲がり、しばらく走ったら目的の寺だ」


 西津藩三万石の譜代大名、森家の菩提寺である安祥寺はすぐそこにある。

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