とあるアラフィフ女子たちのお茶会
日曜の昼前に営業先で仕事を終えて、ふと息をつく。
そろそろ昼休憩にできる時間だが、残念ながらこの時間は私のための時間じゃない。
ふとスマホを見ると、先方からの連絡で、待ち合わせ先のレストランの住所が送られてきていた。
……存外、近い。この前、私に今週の営業先を聞いてきていたのはこのためだったのか。
妙に煮え切らない頭を抱えながら、ふとため息をつく。別にこの誘いに無理に乗る必要はない。適当に理由をつければ、誤魔化しのきく種類の用事だ。仮に関係が悪化したところで、実害はほとんどない。
しばらく自分の呼吸の音を聴いて、惑った末に私は踏ん切りをつけて送られてきたレストランに向けて歩き出した。
いい、どうせ選択肢などないのだ。そこから逃げたところで何にもならない。
そう、逃げてもなに一つだって解決しない。
だから私は、軽い怒りに任せて歩を進める。いちいち、週末になるたびにこんな葛藤をしなければいけないことが腹立たしい。
そしてこの葛藤の原因になってる、あの女の笑顔を想うと尚のこと腹が立ってくる。
表情に出ないように怒りを溜めながら、私は歩を進め続けている。道で通りすがった人が、少し不思議そうに私を見るけれど、そんなもの気にしても何にもならない。
ああ、本当に腹立たしい。
嫌味の一つでも言ってやらなければ収まらないほどに。
ただ、行動を決断すると、少しばかりだが溜飲も下がってきた。
そうだ、これだけ面倒を掛けられているんだ。嫌味の一つや二つ、言ってやろう。
それからあとは…………タバコでも吸ってゆっくりしよう。
※
「しんどいなら、別に断ってもよかったのに」
「……はあ?」
私が件のレストランについて、先に来ていたその女の席に座った時。そいつは開口一番、そう言った。
何をふざけたことを言っているのだ。自分が呼び出しているくせに。
「いや、あんた。仮に友人をご飯に誘って、『ごめん体調悪いから、また今度』って言われていちいちブチ切れるの?」
「私とあなたは友人ではないので。というか、つまようじでこっち指すの止めてもらっていいですか? 先端恐怖症なので」
「あら、そいつは失礼」
対面の女、桐谷 えりかはケラケラと楽しそうに笑いながら爪楊枝をひっこめた。折を見て、またやってくるんじゃないかと、警戒しながら、私は少しため息をつく。
「私の認識はあくまで、うちの子を見てもらっている分の迷惑料と報告ですので」
「それ建前だって言ったじゃん……」
「建前も何も、それが全てでしょう?」
私の言葉に、桐谷えりかはええ、と呆れたように眉を歪める。私はふんと鼻を鳴らして、注文用のメニューを広げた。腹が立つ相手の顔が歪むさまを見ていると、少しばかりだが溜飲も下がってきた。
「気負ってるねえ。外枠が固すぎて心が外骨格みたいだよ」
「誰の心がエビみたいですって?」
「カニもいいね。私、カニは好き」
「あなたの好みは聞いていませんが」
「このカニクリームパスタ美味しそうじゃない?」
「……私はエビのトマトパスタにします」
ただ、時折、話がよくわからない方向に飛んでいく。大丈夫だろうか、この人は。本当にちゃんと社会人として働いているのだろうかと、何故か少し心配になってくる。
職場での、話す内容が理路整然として、言葉尻の一つ一つにも利害が絡む関係とは、また違った疲労感がある。
あちらは、自身の言動の隅々にまで気を行き渡らせる技術と神経がいる。だが、こっちは、……なんというか、ゴールのないすごろくでもしているみたいに、コロコロと話題が変わる。そういえば、サイコロを振った話題で喋るお昼の番組が昔あったっけ、最近ついぞ見ていないけど。
私がメニューを決めると、桐谷えりかは優しく微笑んで手を上げて店員を呼んだ。小綺麗な若い女性が、私達の注文を聞いて、食後の飲みものを聞いてくる。それに私は外行きの笑顔で紅茶をくださいと返した。
笑顔で離れる彼女を見送ったころに、対面でしゅぼっという音がした。視線を向けると、目の前に当たり前のように、ライターとタバコが差し出されている。
「ほい、銘柄は相変わらず私のでいいの?」
「別に、大してこだわりがありません」
昔、私が吸っていたのは、ミント系のものだった。店先に女性が吸うのはこれ、といった感じで置かれていたから何にも考えずに手を出して、ずっとそればかり吸っていた。あとは甘いのとか、スッとするのとか、なんとなく、それっぽいのを吸っていたっけ。少しばかり厳しい家庭環境から逃げるために、隠れて吸っていたから、人とタバコの銘柄を共有することもなかった。だから正直、適当だったのだ。あるものを吸っていた。
だから今出されているのにも詳しくない、男性が吸うような割とヘビーな奴だということくらいか。大量に吸えば、それなりに匂いも残るし肺にも悪い。まあ、週一で吸うたばこに、どれほどの悪影響があるかは分からないが。
「そっか、まあ私もなんだけどね。とりあえず、コンビニで適当な番号を言って買うの」
「それ、たまにとんでもないはずれ引きません?」
「引くねえ。どぎっつくて重いやつとか、たまにむせちゃったりするしね。うちの引き出しに吸わなくて、しけっちゃってるやついっぱいあるよ」
「もったいなあ……」
「まあ、でもこうやって試してみると、食わず嫌いしてたけど、意外といけるなってのもあるのさ。今回のもそうでしょ?」
「まあ……吸えなくはないですけど」
甘くもない、スッともしない。どう考えても女性向けじゃない。じんわりとした煙を吸いながら、私は煙と一緒に軽く息を吐いた。いつも吸っていたものよりタバコの太さすら違う。昔の私はこんなもの、買おうとすら思わなかっただろう。
ただ、その割には、抵抗なく吸っている自分がいる。自分という枠の外にいるのに、変に不安が襲ってこない。不安じゃないことが違和感だ。そんな自分を持て余しながら、指の中でタバコの火を弄びながら、立ち上がる煙をぼんやりと眺めた。ゆるく上がる白煙が視界の中で、柔い糸を織り交ぜるように踊っている。
「こういうのもまた、新しい発見だよ。あ、そういえばね。この前、調べてたら女の子同士の性的な満足にいく難しさに行き当たっちゃってさー」
「……前々から思ってましたけど、あなた、性的なことに関心がありすぎじゃない?」
「そんな遠回しに言わないで、素直にスケベって言っていいよ」
「どスケベ」
「あはは、まあ確かにそうかも」
「セクハラ女」
「くふふ、否定できないねえ」
「歩く公然わいせつ罪」
「いやあ、隠しドスケベなので、公然わいせつは遠慮したいね。これでも恥じらう方でさ」
「私にもその恥じらい向けてくれませんかね」
私の記憶ではこの女からは、遠慮のないセクハラしか食らっていないはずだが。
「だって、カスミそれなりに平気な人でしょ? あしらい方見てたら、わかるよ」
私だってセクハラする相手は選ぶ、と対面の女は自慢げに鼻を鳴らす。……人を何だと。全く言いたいこと散々言ってくれる人だ。
「はあ、どこの誰があなたレベルのドスケベになれるんですか。子ども相手にお尻でのゴムの付け方教えるような」
「いやー、意外といるって。各家庭によってピンキリよ? 私の知ってるとこだと、がっつりそう言う勉強会開く家もあってね」
「どうせネットで見たんでしょ」
「ばれたか、でもさー、この前見たのがさー」
「食前のサラダお待ちしましたー」
「はい、ありがとう。そこにおいてくださる?」
「その優しさ私にも向けてくれんかなー」
「
「うーむ……まあ、そういうならそれで、よしとするかあ」
そうして、私達は食事を初めて、その間も延々と他愛もないことを喋り続けた。
いつからタバコを吸ったか。好きなお酒は何か。好きな果物。飲み物。最近会った面白い客。ふと見えた雲の形。最近あった、楽しいこと。
「で、今日出る時さ、うちの子がゆいかちゃんいないって大焦りでさ。大丈夫でしょーって言っても慌て続けてね。出かける瞬間に、探しに行くから一緒に出るとか言い出したんだけど。いざ出てみたら、ゆいかちゃん、汗かいて普通に帰ってきてたの。そこらへん散歩してたんだって、そんときのうちの子の顔ときたら!」
「…………」
「そういえば、学校で結構いい友達できたみたいよー。ゆいかちゃんと境遇が似てるんだって、割と昔のこと話しても平気だったって、わーきゃー言ってたね。いやあ、あの子ら見てたら私の頃にもあんな学校あったらなって想っちゃうよねー。いいなあ、私も授業とか選んでみたい。気に入った先生追け回したいわ」
「…………」
「で、ゆいかちゃんと、きりこがねーーーー」
食後の紅茶とコーヒーがでるころには話はすっかり子どもたちのそれになっていた。本当に何でもない、他愛もない内容を、よくもまあ、楽しげに話すものだ。
楽しいのだろうか、まあ、楽しいのだろう。桐谷えりかの口からこぼれるのは終始楽しい話と表情ばかりだ。
その登場人物として出てくる、私の娘の姿は快活で、新しい物事に挑戦して、しっかりしていてーーー。
どれも彼も、私の知っている像とは噛み合わない。
これは本当にあの子の話なのだろうか。それか誇張で盛りに盛った話ではないのだろうか。
それか、私にそれとなく、親としての興味を持たせようとしているのではないだろうか。
結局すべて作為的なのでは。
そんな邪念が思い浮かんだ。
紅茶を啜りながら、じっと話を聞き続ける。
ただ、その話に水を差すようなことはしなかった。
できなかった。
出来るわけがなかった。
何せ私が知るあの子は、逃げる子だった。
何をしても。
何をさせても。
最初は頑張っているけれど、やがて辛そうな顔をして、最後には大事なところで突然、逃げだす。
いつもそんなことを繰り返している子だった。
逃げてはダメだから、と言い聞かせても聞きやしない。
そんなんじゃ何もできなくなる、と教えても学びもしない。
最後に独りになるのはあなたなんだと言っても、あの子はひたすらに逃げ続けた。
なだめても。すかしても。怒っても。否定しても。おだてても。罰を与えても。
あの子はいつも最後には、しかも肝心な場面に、狙ったように逃げ出す。そんな子だった。
だから。
どうせ今回も逃げ出すわよ、とどこかで私が告げていた。
どうせ最初だけに違いない、とどこかで私が歯を食いしばった。
どうせあの子なんか、とどこかで私は目を伏せた。
でも、もしかしたら。
と、少しだけ想いが首を傾げる。
もしかしたら、悪かったのは私達だったのかもしれない。
私と、旦那が。あの子の親が。
私達が、もし
あの子に告げたこと、やってきたことは、少なくともその時の私は正しいと信じてなしてきたはずだけど。
もしかしたら、例えば、この桐谷えりかが母親だったなら。
あの子は、あんなに弱い子にならずに済んだのかもしれない。
…………くだらない妄想だ。
私が軽くため息をつくと、桐谷えりかはどこか心配そうに私を見ていた。
「大丈夫? まじめに調子悪い?」
「いえ、なんでもありませんよ」
そう嘯いて、薄く煙を吐き出した。食べたばかりだと言うのに、胃の奥が縮むように痛かった。頭の奥でくぼんだみたいな虚無感ががんがんと鳴っている。今、ここにいるのは少し耐えられなかった。
それから、私は席を立つとお金だけ置いて、カバンを持って立ちあがった。
「じゃあ、仕事なので。先に行きます」
「…………う、うん」
「ではまた、…………うちの子をお願いします」
「…………」
どことなく、何かを言おうとして言葉を探している彼女を置いて、私はさっさと席を離れた。
逃げてしまおうと、どこかで私が囁いていた。
それじゃあどうにもならないと、どこかで私がため息をついた。
わからないと、どこかで私が疲れたように目を伏せた。
今週はきっと家には帰れない。
私の目の前で萎縮するあの子の姿を、今だけは見たくなかった。
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