彼女の日記
自然と、まぶたが開いていく。
思考も視界も、もやがかかったようにぼんやりとしていて、全身がだるい。
何度かまばたきを繰り返すうちに、少しずつ、感覚が研ぎ澄まされていく。
「ここは……時計塔?」
どうやら私は、時の塔――この世界でもっとも正しい運命を刻む建物の中にいるみたいだ。
そこまで考えて、やっと、果たすべき目的を思い出した。
「……行かなきゃ」
生まれて初めて使った魔法は、『過去への通り道を作る』魔法だった。それにしても、魔法を使う感覚というのは、なかなか慣れそうにない。
未来の歴史が刻まれる、時計塔の表記を指でなぞり、その中に、とある見知った文字列を見つける。
「マナ・クラン・ゴールスファ 死去」
この運命を変えるために、私はここまでやってきたのだ。
***
――ニ〇八六年、四月二日。何者かによる襲撃にあった。体に外傷はなく、物品が盗られた形跡もない。ただ、味覚が失われており、体は重く、思うように動かない。
そして、傍らに、この真っ白な日記が置かれていたそうだ。皆こぞって読もうとしたが、強力な魔法により、開くことさえままならなかったらしい。
唯一、私だけは、開くことができた。一通り目を通したので、事情は誰よりも知っている。
私が奪われたのは、一番、大切な記憶だ。過去と未来を繋ぐ通路を作る代償に、彼女はそれを失い、私からそれを、奪っていったのだ。
ただ、実のところ、これでよかったのではないかと、私は思っている。私の記憶が彼女への手向けになったのなら、それでいいのだ。失った記憶は、この日記にちゃんと刻まれているから。
それに、失ったものは、また、築いていけばいい。
――これは、私の日記ではない。私の一番大切な、彼女の日記だ。暗記するほど読み込んだ、その真っ白な装丁の日記を抱きしめて、私は立ち上がる。
「上手くできてれば、今は、ニ〇八六年の四月二日、のはずよね」
ひとまず、王都へ向かおう。あそこなら、人も多い。誰かに日付を聞けばいい。もし、失敗していたら――。
「いいえ。そんな心配は後回しよ。今はとにかく、急がないと」
ふと、床にキラリと光る何かを見つけて、私はそれを拾い上げる。分かりづらいが、よく見るとそれは、桃色の頭髪だった。
「間に合わないかもしれない……!!」
日付の確認も後回しに、私は大慌てで時計塔を出て、目的の花畑へと走る。冷たい雨が降り出していた。
たどり着いた場所で、桃髪の少女の後ろ姿を視界に入れる。ぼんやりと手を伸ばし、魔力を集めている様子の彼女へ向けて、私は力の限り、叫ぶ。
「マナ!!」
届いたかどうか分からない声に、彼女の動きが、わずかに、止まった気がした。
「待ってマナ!」
だから、私は彼女の名前を呼び続ける。ようやくたどり着いた彼女の向こうには、立ち去る琥珀髪と、一人取り残される桃髪が見える。私はそれに構わず、ここにいる彼女の手を掴む。もう片方の手には、私が持つものと同じ、真っ白な装丁の本が抱えられていた。
「間に合った……!」
振り返った薄黄色の瞳は、私を見ているようで、まるで、見ていなかった。それでも、こうして手を握っている間、彼女は魔法が使えない。
「冷たい手――」
その手をそっと抱き寄せて、私は体中の熱を、彼女の手に集める。
「ないんです」
宝石の欠けた、薬指の指輪をなぞり、マナはぽつりと呟く。
「なくなってしまったんです」
黄色の瞳から、静かに、しずくが落ちる。
「もう二度と、取り戻すことはできない。降った雨が空に戻ることはない。欠けた指輪の形を思い出すことさえ、私には、許されない」
薄暗い黄色の瞳が、底知れない闇を持って、淡々と語る。私はその頬に手を伸ばし、うつむく彼女と無理やり視線を合わせる。彼女は星のように輝く瞳で、今にも消えてしまいそうな表情で、
「どうして、止めたの」
揺らぐ声で、私を責める。どこまでも闇に満ちた瞳が、私を、からめとろうとする。
「――ごめんなさい」
ただ、謝ることしかできない。マナに会いたいと、願う人がいるから。マナを助けたいから。そんな、エゴの押しつけだけで、私はここにいる。やっと自由になれそうなマナの翼を、握っている。
「それでも、あたしは、マナに生きてほしい」
――きっと、届く。
「マナがいないと、あたしは、すっごく寂しくて、ダメなの。だから、一緒に、生きてほしい」
彼女の、宝石が欠けた指輪の上に、私は自分の親指の、ピンクトルマリンの指輪をはめる。
「お願い。今度はずっと、側にいてあげるから」
「嘘つき。私はあのとき、あんなにも、あなたのところに帰りたかったのに。あなたは帰らせてくれなかった」
「もう絶対に、そんな想いはさせない」
「嘘つき。あなたのせいで、私がどんな想いをしたと思ってるの?」
「それは――」
「日記、読んだんでしょ」
「――ええ」
「……あなたは、私がどれだけ想っていても、自分を大切にしてくれない。私のためなんて言って、私を一番傷つける。頼んでもないことばっかりして、私のお願いなんて、少しも聞いてくれない」
「そうね。それはきっと、これからもそうだと思うわ」
「――もう全部、終わりにさせてよ」
「……できないわ。顔にも声にも、助けてほしいって、書いてあるもの。それに、何より、あたしが一緒にいたいの」
「嘘つき……っ。まなさんが一緒にいたい人は、他にいるでしょ!?」
「マナと一番、一緒にいたい。マナの笑顔が見たい。マナに寂しい想いをさせたくない。それが本心よ」
「……いつもそう。いつもいつもいつも! どうして? どうしてこんなところまで来たの!」
「マナのことが大好きだから。一緒にいてくれるって言うまで、この手を離すつもりはないわ」
根比べなら、最後には私が勝つ。知っていた。マナの力なら、この手を簡単に振り払えてしまうことも、マナにはそれができないことも。
「ズルい。ズルいよ……っ」
「卑怯だとは思うわ。でも、自分の願いより、あたしを選んでほしい」
――地べたに座るマナを、私はやっと、抱きしめて、その頭を撫でてやることができた。
「ありがと。あたしに譲ってくれて」
「まなさんの、ばかああぁ……っ!」
「マナだって馬鹿じゃない」
私に馬鹿と言われた彼女は、私がつけた指輪を、大切そうに外して、私の左手の薬指につけた。サイズが違うので、かぱかぱだ。
「永遠にあなたを、愛してもいい?」
「重っ」
「なっ! お、重くないもん! 普通だもん!」
「あたしは、あんたの恋人でも伴侶でもないわよ」
「じゃあまなさんは、私のなんなの!?」
「そうね……。まあ、強いて言うなら」
そう言い置いて、焦らしてやると、マナは「なんで焦らすの」と、不満そうに頬を膨れさせる。私は、その頬をつついて、
「永遠に一番大切な、友だち、かしら」
「ふ、フラれました……」
「一番大切なんだから、関係の名前なんて、どうだっていいでしょ。それとも、ラベルのほうが大事なの?」
「――ううん。友だちのほうが、とっても、嬉しい」
――ああ、やっと、笑ってくれた。
マナは私を後ろから抱きしめて、私の頭に顎を乗せる。
「それにしても、これは、結構、キツイわね……」
もとより私たちは、この世界の存在ではない。世界から奨励されるはずもなく、異分子として、取り除こうとされる。
その影響が、この、自殺衝動なのだろう。そう、この世界に戻ってきてから、死にたくてたまらないのだ。あと何日持つか、分からないほどに。
「――こんなところにいたんだ」
突如、背後からかけられた女の声に、私とマナは振り返る。そこには、フードを目深に被った女性が立っていた。
「れな……?」
「これから二人には、時空の狭間で暮らしてもらう。詳しい説明がしたいから、着いてきて」
いやに冷たい声に従い、私たちはれなに着いていった。
***
れなから色々な説明を受けたが、とどのつまり、私たちがこの世界に過度に干渉すると、世界の形が歪んでしまい、最終的には滅びるらしい。
「ここまで来たのに、何もできないってこと……?」
「まー、そーゆーことになるね」
口調こそ、いつもの通り砕けているが、表情と声の冷たさは、身震いしたくなるほどだ。
「そもそも、時を戻したって、元の世界での出来事がなかったことにはならないんだよ。複製したセーブデータの片割れを巻き戻してるに過ぎないんだから」
「……どういう意味?」
「そのままの意味。頭のいいまななら、分かるでしょ」
確かに、なんとなく、分かる。
「でも、どうしてそんなことまで知ってるわけ?」
「それを教える義理はないかな」
私を抱えてソファに座っているマナが、私の肩に、顎を乗せる。
「どうしてそんなに冷たいんですか。まなさんはこう見えて繊細なので、深く傷ついていますよ」
「知ってるよ、そんなこと。でも、その子は、あたしのまなちゃじゃないじゃん。どれだけ姿形が似てたって、クローンみたいな存在まで愛することは、あたしには無理だね」
……私は、思い違いをしていたのかもしれない。時を遡れば、すべてがやり直せると、そんな単純に考えていたわけではない。
――だが、どこかで、次こそは、と。そう思ってしまっていた。
ここは、前の世界とはまったく別の世界なのだ。私の過ちをやり直すことは、できない。
「とにかく。長くいればいるほど、危険だから。もう時空の狭間に送るけど、いい?」
「……ええ。わかった」
どこからか杖を取り出し、れなはその手に構える。杖を使えば魔力が安定するが、基本的に、杖など使わなくとも魔法が使えるほど、世界は魔力に満ちている。ただ、強力な魔法を使う際には、杖を用いたほうが負担を軽減でき、細かい調整もしやすくなる。
「最後に一つだけ、言わせて」
着々と準備を進めるれなに、私はそう切り出す。
「何?」
普段なら、こんなことは言わない。今言わなければ、後悔すると分かっていたから、私は深呼吸して、恥ずかしさを誤魔化す。
「今まで、本当にありがと、お姉ちゃん」
それに対する返事も、どんな顔をしているかも、分からない。何一つ悟らせないよう、あるいは、本当に興味などなかったのか、れなは私たちに、背を向けていた。
「――あかりんにだけは、全部話して大丈夫だから」
れなの一言を最後に、私たちは時空の狭間へ取り込まれて、彼女は目の前から姿を消した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます