ex4

 明日は、僕の十五の誕生日だ。


 朱里のいない、初めての誕生日だ。


「あかね! 早く早く!」

「はいはい、今行くよ」


 僕を呼ぶあの少女を、狭苦しい城から連れ出して、はや数ヶ月。厳重な警備の目をなんとか掻い潜って、唯一の交通手段である電車で逃げてきたという、末代まで語り継がれそうな、一世一代の恥。――少なくとも、僕にとっては駆け落ちのつもりだった。誰がなんと言おうとも。


「次はどこに行く?」


 桃髪を揺らして、少女は尋ねてくる。黄色の瞳が僕の心を直接撫でるみたいに、じっと探ってくる。――悪くない。


 いまだ、逃避行を続ける僕たちは、人気のない場所を二人で歩いていた。目的地も決めず、ただただ歩いた。真っ直ぐ進むときもあれば、ふざけながらゆっくりと進むときも、あるいは、急に反対を向いて、来た道を戻ることもあった。最低限、追っ手にさえ見つからなければ、何でもいいのだ。彼女が側にいてくれるから。


「えいっ」


 と、背後をとられて、背中にしがみつかれる。彼女がいくら軽いとはいえ、急な重みには耐えられず、せめて下敷きにはしないようにと無理やり前に倒れて、思いきり顔面を打った。


「あだあっ!?」

「大丈夫?」

「うん、大丈夫大丈夫。それより、どいてほしいかな」


 大丈夫と聞きつつも、僕の上から降りる様子のない彼女は、うーんと、少し悩む素振りを見せてから、


「やーだっ」


 と、さらに抱きついてきた。


 そっちがその気ならと、僕は彼女をどかすために、寝返りを打ち、体勢を変える。楽しそうな叫びを上げながら、地面に落とされた彼女は、またしても、僕の上に乗ってくる。その桃髪を、僕は優しく撫でる。


「えへへ。もっとー」

「まったく、マナはおねだり上手だねえ」

「もっともっともっとー!」


 弾けるような笑顔に、こちらまで自然と笑顔になる。ちょっと手をどけると、寂しそうな顔をして。そんな顔もかわいくて、ついつい、イタズラしたくなってしまう。あまりからかいすぎると拗ねるが、それすらもかわいいし、もうどうしようか。


「ねー。明日、どこか行きたいところとかある?」


 彼女は僕が婚約指輪として渡した、薬指のピンクトルマリンの指輪を見つめ、その表面を優しくなぞる。僕の誕生祝いをどこでするか、という話なのだろう。


「うーん……。ちょっと待って、今考える」


 こういうときに、どこでもいい、と言うのは、あまりよくない。僕の誕生日なのだから、少し欲張るくらいでいいのだ。


「あ、じゃあ、外国とか、行ってみたいな」

「カルジャスとか?」

「カルジャスって、どこ?」

「外国」

「それは文脈から知ってるんだよね」

「じゃあ、行ってからのお楽しみ」

「えー、けち」

「知らない方が悪いんだもーん」


 まるで、自分だけが知っている秘密の場所に、僕を招こうとしているかのような。自分だけが知っているアイドルを勧めているかのような。自分だけが知っている美味しいものを食べさせようとしているかのような。


 そんな、ぞっとするほど蠱惑的な顔だった。


 桃色の唇が、同じく桃色の宝石の表面に優しく触れる。魔力を込めると映像が撮れるこの指輪は、僕が勇者として最初にもらったお小遣いで買ったものだ。ちなみに、これからのことも考えて、貯金はたんまり残してある。


「はい」


 その指輪が僕の唇に向けられる。今しがた、彼女が口つけたばかりの指輪が、迫ってくる。


 思わず、顔をそらすと、頬にぐりぐりとねじ込まれた。


「いててててっ」

「意気地無しー」

「いや、ダメだって。まだ、アイのお兄さんに認めてもらえてないんだからさ」

「今なら、誰もいないよ?」


 その誘い方は、卑怯だ。だが、幸い、僕には耐性があるので、九割までしか効かない。残りの一割で十分、退けられる。ヨユーだ。


「じゃあ、明日の誕生日プレゼントにするから、受け取ってくれる?」

「おっと、サプライズな誕生日プレゼントだねえ」

「誤魔化さないの。はい、どっち?」


 思わず、イエスと言ってしまいそうだ。


「……善処します」

「馬鹿。もう知らない」


 膨れている頬を、ぷすっと指で刺すと、しゅうっと空気が抜けて、マナは笑った。


「実は、僕からも、渡したいものがあるんだ」

「――それって、期待していいの?」


 上目遣いだ。あざとすぎず、最大限、魅力を活かした、計算し尽くした角度での、プロの上目遣いだ。


 ――この世界では、両者が十五であれば、婚姻ができる。成人となる二十歳までは、保護者の許可がいるため、そう簡単にはいかないだろうが、それくらいの障害、なんてことない。


 目の前の彼女に抗う方が、よっぽど大変だ。


 ――するりと、髪の毛が一房、滑り落ちる。


「期待、しててよ」

「本当に?」

「うん、本当に」

「本当の本当に?」

「本当の本当の本当に」

「……ずっと、一緒にいてくれる?」

「もちろん。むしろ、僕の方からお願いしたいくらいだね」


 彼女といる間だけは、朱里のことを忘れられる。何もかも忘れて、彼女への愛に、心を浸していられる。これが、本当の幸せなのだと、つい先日、やっと気がついた。


 少し不安そうに、僕の胸に耳を当て、鼓動を聞いている彼女の温かさに、僕の心はどろどろに溶かされていく。彼女の背に手を回し、ぎゅっと抱きしめる。


「誰も祝ってくれなくても。誰も願ってくれなくても。誰も望んでくれなくても。私はずっと、あなたと一緒にいるから」


 ――世界から愛されている彼女と、こんな僕では、釣り合いが取れていないのは分かっている。


 世界中が、反対するだろう。世界の誰も、認めてくれないかもしれない。疎まれ、蔑まれ、虐げられて、この世のどこにも、僕たちの居場所はなくなるかもしれない。


「覚悟はできてるよ。何と引き換えにしても、君を選ぶ覚悟は」

「――とっても、嬉しい」


 照れた顔を胸板に擦りつけられて、くすぐったさに目を細める。お返しにと、隙だらけの身体をくすぐると、彼女は、ひゃっと声を上げて、身を縮めた。


 僕は明日、彼女にプロポーズをする。



 ――そのはずだった。



 日付が変わった途端、酷い頭痛と、吐き気と、目眩と、焼ききれそうな脳の熱に、僕は思わず叫んでいた。


 知らない記憶が、流れ込んでくる。知らない情報が、流れ込んでくる。知らない景色が、流れ込んでくる。


 身をよじらせて、力の限り叫んで、体力を使い果たして気絶して。何が起こっているのか、何がつらいのかも分からないまま、十五の誕生日はあっという間に過ぎていった。


 ――やっと、症状が落ち着いて。手に触れる柔らかい感触に、視線を落とすと、そこには一日、付きっきりで看病してくれたであろう彼女の寝顔があった。ずっと、手を握ってくれていたらしい。そんな健気さが、嬉しすぎる。


 なのに、もう少しも笑えない。


「ははは……。なんだよ、それ」


 ――すべて、思い出した。


 過去に愛した者のこと。産まれた双子の不幸。僕がここにいる意味。


 ――笑える。


 自分が選んだ運命に、まんまと踊らされて。望んだ通りの悲劇を演じて。


 挙げ句、実の娘に発情するなんて。


「……うえっ」


 近くにあった袋を手に取り、空っぽのはずの胃の中身を吐き出す。


 実の娘と結婚? ふざけるにしても程がある。そんなの、天界のルールがなくても、生理的に受けつけない。オムツを変えたことだってある。身体を洗ってやったことも。挨拶代わりに、頬にキスをかわして。間違ったことをしたら叱って。いいことをしたら褒めて。転びそうになったら支えてやって。


 ――間違いなく、彼女は僕の娘だ。


 なのに。


「なんで君は、そんなにかわいいんだよ……ッ!」


 彼女の頬をなぞり、前髪をそっと上げて、皿のような額に口つける。疲れきっているのか、まったく起きる気配はない。



 聞いたことがある。親子であることを知らずに出会った二人が、やがて恋に落ちる話を。


 僕が育てたのだから、似ていて当然だ。気が合うに決まっている。彼女が僕に一目惚れしたのも、偶然なんかじゃない。本能が感じ取った親近感を、恋だと錯覚したにすぎない。


「ごめん、本当に、ごめん……っ」


 プロポーズ? 冗談じゃない。できるかそんなこと。こうして、真実を知った以上、付き合っていること自体、罪だ。


「なんて謝れば、君は傷つかずに済む?」


 そんな方法がないことは分かっている。分かっているさ、そんなこと。


 ただ、傷つけたくないだけだ。傷つくのが怖いだけだ。


 本当のことなんて、言えるわけがないのだから。


「君だけは、好きになっちゃダメだったのに。ごめん。本当に、ごめんなさい……」


 ひたすらに、謝り続けた。これが、僕が選んだ罰だと思うと、我ながら、よく考えたものだと感心する。


 彼女を幸せにするための人生なのに。主神であるはずの僕が、どうして彼女一人を幸せにできないんだろう。――どうやって、彼女を幸せにすればいいんだろう。


 心はぐちゃぐちゃだ。それでも、頭は昨日よりすっきりと物事を考えられるようになっていて、整理はとうについていた。


 ――ふわっと、頭に手が乗せられる。


「怖い夢でも見た?」


 いっそ、夢ならよかったのに。


 いっそ、何も知らなかったことにしてしまおうか。


 いっそ、今まで通りを装っていようか。




 ――いや。彼女に嘘をつき続けることなんて、できない。




 そうして僕は、彼女と別れた。


 遠くで聞いていた。平然を装っていた彼女の、つんざくような泣き声が、今でも耳に残り続けている。

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