第4-9話

 一体、何があったら、見えないものが見えるようになるのか。まなの記憶はところどころ消されており、違和感に気づかないのも、無理はないのかもしれない。



 だが、存在しない誰かに心を奪われたままでは、きっと、まなを振り向かせることはできない。



「そこには、誰もいないよ」

「そうだね。お姉ちゃんは、私にしか見えないから」

「違う。誰もいないんだよ。おかしいのは皆じゃなくて、君だけだ」


 まなは要領を得ない様子で、首を傾げ、背後の僕の顔を見上げる。


「まゆみちゃんは、もう死んだんだよ」


 まなの右袖を捲り、その傷をなぞる。またいくつか、新しい傷が増えている。まなは、その腕を、じっと見つめる。


「まゆみは、死んでなんかない」

「いや、死んだよ」

「死んでない!」

「死んでるよ」

「なんで……なんで、そんなこと言うの? 現に、ここは、二人部屋でしょ?」

「確かに、二人部屋だね。でも、靴は一足だ」


 狼狽えるまなに、僕は続ける。


「教科書も、筆記用具や鞄も、全部、一つだ」

「制服も着てるし、箸だって二つあるでしょ」

「お弁当箱はいつも一つだよ」

「それは、まゆみが少食だから……」


 自分の中で辻褄が合っているというのは、こうも面倒なものなのか。


「それに、お姉ちゃんとの思い出は、ちゃんと箱に詰めてある」


 まなの指差す先には、小さな箱があった。その中に、大切なものが入っているのだろう。だが、確認の必要はない。


「じゃあ聞くけどさ、まゆみちゃんの席って、どこにあるの?」

「私の隣に――」

「君の隣は、ハイガルくんだよ」

「……見えないから、席も用意してもらえなくて」

「生徒じゃないのに、学校に来てるの? 制服はあるのに?」


 まなは、小さな両手で頭を抱え、首を横に振る。


「信じない」

「まなちゃん――」

「嫌だっ!!」


 こうして、事実を受け入れないことで、自分を守ってきたのだろう。今までずっと。


 だからこそ、それを取り上げてしまったら、どうなるのか。


 ――ああ、想像するだけで、興奮する。


「お姉ちゃんは、私を一人にしない! 私を置いていったりしない! ずっと、一緒にいるんだもん。私は、お姉ちゃんを死なせたりしない。お姉ちゃんは、私のせいでいなくなったりしない!」


 彼女が執拗に自分を責めるのは、それが原因か。



 彼女は、姉がいなくなったのは自分のせいだと、そう思っているのだ。


 しかし、彼女の心は、それを受け入れられなかった。だから、自分のせいではないと、否定し続けている。


 何も悪くないのに自分を責めて、それを否定している。そして、それが矛盾しているということに、気づかない。



 死にたいと願ったのは、他ならないまゆみ自身で、その命を刈り取ったのは、死神なのに。



 ああ、本当に。


「馬鹿だねえ――」


 サイドテールからは、かすかに、魔法の気配がする。おそらく以前は、まなに対しても絶対的な効果があるほど、強い魔法だったのだろう。


 だが、魔法というものは、月日とともに、薄れていきやすい。


 僕はその髪を少しずつ、ほどいていく。


「何、してるの?」


 魔法は想いの力に左右されやすい。きっとまなは、感じとることすら難しい、この些細な魔法の力を借りて、まゆみを覚えているのだろう。


 まなの問いかけに答えず、エクステの髪をほどいていくと、不意に、まながそれにしがみつく。


「嫌だ。とらないで」


 無抵抗のまま、気づかないうちに外せれば良かったのだが、やはり、彼女のまゆみへの想いは、それだけ大きいらしい。


「なんでとっちゃダメなの?」

「これがなくなったら、本当に、一人になっちゃう気がする」


 本当は、彼女にはもう、姉の存在は必要ない。姉という、無条件に信頼できる存在にしがみついているだけだ。彼女はちゃんと、一人で生きていける強さを持っている。


 姉がいなくなってから今日まで、一人で生きてきたのだから。


 それが理解できたなら、彼女は前を向いて、強く生きることができただろう。



 ――でも。それは、すっごく、つまらないよねえ?



 だから僕は、あえて、こう言った。




「大丈夫だよ。――僕が君を、一人にしないから」




 これが一番、彼女を壊せる言葉だ。今までのインプットから導き出される最適解。


「……本当に、一人にしない?」

「うん。ずっと、一緒にいてあげる」

「本当に、信じていいの?」


 もう一押し。


「僕、実は、あかりって名前じゃないんだ」

「え?」

「信じられないかもしれないけど、本当は、榎下朱音って名前なんだ。今まで、嘘ついてて、ごめん。でも、君になら打ち明けていいと思ったんだ。君のことは、信じてるから」


 まなになら、本名を打ち明けてもいいと思った。それは、本心だ。


 そうして、嘘に本心を混ぜて、分かりにくくする。


「私のこと、嫌いなのに?」

「好きの反対は無関心だよ」


 少し間があって。


「分かった。私も、あかねを、信じる」


 本人の許可を得て、僕は彼女の髪を、するりとほどく。


「お姉ちゃんを、よろしくね」



 すると、彼女の右腕の傷は、きれいに消滅した。



 それだけに留まらず、箸や、彼女が大切にしていたという箱までもが、消えていく。


 それでも、この部屋に二人分もの思い出があったとは思えないほどに、消えたものは、少なかった。


「あかね、大好き」


 そう囁いて、まなは僕にぴったりと体をくっつけてくる。僕はその白い頭に、ゆっくりと視線を落とす。


「ずっと一緒だよ」


「あかねだけいてくれたら、私は、それでいい」


「私のすべてを、あなたにあげる」


「なんでもしてあげる」



「だから、一人にしないでね」



 僕はまなの髪を、ポニーテールにしてやって、後ろから抱きしめる。


「もちろん。一生、側にいるよ」


「すっごく、嬉しい」


「僕も嬉しいよ」


 これで、彼女の望みは、消えた。

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