第2-10話
まなが母親と話すために、下の階に向かってから間もなくして。扉が勢いよく開かれた。
「あかり、助けて!」
何の説明もなしに、開口一番、まなはそう言った。しかし、僕は何も聞かず、彼女についていく。
部屋の中で、彼女の母が倒れていた。
傍らにはユタの姿もある。すぐに状況を判断し、僕は母親を宙に浮かせて、病院まで飛んでいく。この方が、救急車よりも速い。
しかし、病院についたはいいものの、一体どうしたら、などと考えていると、看護師に声をかけられた。そして、彼女を預け、病室の前で待つ。
「お名前は?」
「えっと、榎下朱――」
「あなたじゃなくて、女性の名前!」
「あ、えーっと……」
姓はまなと同じだ。魔王の正妻でもある。だが、名前は覚えていない。その旨を伝えた。嫌いなやつの名前はすんなり入ってくるのだが。
少しして、まなとユタが到着した。宿舎の管理人に車で送ってもらったらしい。ちなみに、ユタは泣き疲れて、眠ってしまっていた。
「あたし、ちょっと用事を思い出したから帰るわ」
そう言って立ち去ろうとするまなの右腕を掴み、引き留める。
「何?」
「行っても意味ないよ」
「意味がなくても、やらなきゃいけないことだってあるわ」
「意味がない、じゃなかったね。――無駄だよ」
彼女が何をしようとしているのか。
それは、チア草の採取だ。
どんな病気でも治せると言われている薬草が、チアリタンと呼ばれる山にあるらしい。だが、しょせん、眉唾物だ。
「無駄かどうかなんて、やってみないと分からないでしょ!?」
感情的になるまなを無理やり椅子に座らせて、代わりに立ち上がる。
「まなちゃんが今しなきゃいけないことは、お母さんとユタの側にいることだよ。チアリタンは、僕が燃やしておくからさ」
「なんで……?」
「そうすれば、まなちゃんが諦めてくれると思うから」
怪しい数珠や壺に頼るのと、大差ない。お金がかからないというだけだ。だが、そう説明したところで、彼女はこの場に留まろうとはしない。
「それでも、全部燃やしたって、一本くらい」
「君は、母親との時間を大切にしたいと思う一方で、母親と一緒にいるのが怖いとも思っている。――でも一番は、自分が可哀想な悲劇のヒロインになりたいだけだ。そうだろ?」
「あたしはっ、うっ……!」
何か言いかけたまなの腕を強く握り、言葉を封じる。
「君、傷つくのは自分だけだって、そう思ってるだろ。……そんなわけないだろ! 君がここを離れることで、一体、何人が傷つくと思ってるんだ! 君はまだ、母親と一緒にいられるんだから、その時間を大切にするべきだ。それが、一番の親孝行で、君にとって一番、辛い選択だ」
「でも、それでも、少しでも助かる可能性があるなら!」
僕は人から見られないよう魔法がかかっているスマホを取り出し、透明化を解いて、まなにニュースの画面を見せる。
そこには、山火事が起きて大騒ぎになっている、チアリタンの映像が映し出される。
「もう、遅いんだよ」
まなは、その映像を食い入るようにして見つめ、膝を引き寄せて肩を震わせる。
――ああ、どうして、ここにいるのが、ハイガルじゃなくて、僕なんだろう。
そんな感情を抱きつつ、僕は彼女が逃げ出さないよう見張るために、椅子に座り直した。
***
まなの母親は、週刻みの余命宣告を受けた。それから毎日、まなは病室に通った。もちろん、弟のユタも連れて。
三人の時間を邪魔しないようにしつつも、僕は彼女を監視していた。魔王の隣で。
『まなが来てくれて、本当に嬉しいわ』
『……あっそ』
『ほら、こっちにいらっしゃい。思いっきり、抱きしめてあげるから』
『い、いらないわよ、そんなの』
『ほら早くっ』
『――仕方ないわね』
『ねええ! お姉ちゃんばっかりズルい!』
どこか、素直になりきれないまなと、少しだけ素直になれたユタ。そして、二人の小さな喧嘩を微笑ましく見守る母親。
そんな、どこにでもあるような光景に、僕は目を細める。
「魔王サマは、行ってあげないの?」
「……合わせる顔がないからな」
母娘を引き離した張本人がどの面下げてと、そういう理屈だ。理屈は、分かる。
「一生後悔するよ。僕も、家族を失ってから、ずっと後悔し続けてるから」
「――分かっておる。だが、一生後悔するくらいでは、償いきれぬ罪だ。故に、あの中に入ることはない」
彼が行ったところで、誰も気にしないだろう。彼がしたことのすべてを、まなはきっと、許せてしまう。
だが、何もかもを忘れて生きることなんて、できない。記憶を失いたいと願ったところで、そう都合よくは消えてくれない。
自分のことは、自分がいつでも見張っている。
『ねえ、あたし――』
『ねえじゃなくて、お母さんって呼んで?』
『お、おかあ……さん』
『うん。何、まな?』
『あたし、ここにいてもいい?』
『ええ、もちろん。だから、学校には行かないで?』
『いいえ、学校は行くわ』
『もう、真面目ね……。きっと、あの人に似たのね』
『じゃあ、オレ、代わりに学校行かない!』
『『行きなさい』』
母娘がハモって、一緒に笑い出す。
「ま、僕には関係ないからいいけどさ」
それから一ヶ月ほどが経ち、マリーゼ・クレイアは、命を落とした。
正妻を失ってからの魔王は、何かに追われるようにして、公務に没頭しているそうだ。
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