第1-3話

 宿舎の鍵を魔法で開け、彼女をベッドに寝かせた。


 そして、僕は自室へと戻り、すぐさまトイレに駆け込み、先ほど食べたばかりの夕食を、すべて戻す。


「大丈夫ですか?」


 背中に添えられた手が、優しく擦ってくれていた。やっと吐き気が収まり、一息ついた後で、彼女の腰の辺りに抱きつき、そのベルスナーキーの香りを、肺いっぱいに吸い込む。ベルスナーキーは、この国にしか咲いていない花で、僕はその甘い香りが好きだった。


「え、あ、あの……っ」

「ごめん、ちょっとだけ」


 分かっている。アイの――マナの優しさに甘え続けることが、どれだけ罪深いことか。僕は彼女と別れたのだから。僕から、彼女を振ったのだから。


 きっと、赤面しているであろう彼女は、戸惑いつつも、僕の頭を撫でてくれた。僕が触れたいと思うのは、彼女だけだ。


「……はあ。僕って、ダサいなあ」


 いくら、僕と重なって見えたからといって、まなは僕ではないのだから。あの場でクロスタとやらに言ったことのすべては、僕の勝手な感情だった。


「ごめん、マナ。都合のいいときばっかり頼って」


 顔を少し上げると、額が指で弾かれた。それだけで僕はアイから引き剥がされて、仰向けに倒れる。


「口説かないでください。あなたは、まなさんが好きなんでしょう?」


 ――そうだ。僕は、あの子をおとすんだった。


「全然、口説いたつもりなかったんだけど。耐性低すぎない?」

「そ、そんなことはありません。それに、都合よく頼って来ないでください。今日のこれは、別に、その……美味しいご飯のお返しですから。あと、毛布も、ありがとうございました。では」


 アイが去った後の僕の部屋は、洗い物が終わっている上、掃除にベッドメイキングまでされているらしかった。


 ――ああ、寝たフリだったんだ。


 こんなにも優しいアイを傷つけたのだから。僕は何としてでも、目的を果たす必要がある。




 心が落ち着いた僕は、起き上がり、白髪の彼女の部屋へと向かう。勝手に入っていることに激怒され、気持ち悪いと罵られるかもしれない。警察に差し出すと言われる可能性もある。


「ま、それはそのとき」


 逮捕なんて慣れたものだ。主に、器物破損で。まあ、公務執行妨害とか傷害罪もあったけど。


 侵入した部屋で彼女の寝顔を見――ふと、彼女が、右腕を強く握っていたことが思い出された。できれば、触れたくなかったが、


「今しかないかあ……」


 覚悟を決め、僕は彼女の右袖をそっと捲る。


 ――そこには、びっしりと傷が刻まれていた。見れば分かる。これは、自傷の跡だ。


 その傷は、文字だった。右腕一面に同じ三文字が何度も何度も刻まれているのだ。いまだに、字もろくに読めない僕は、それを、一文字ずつ、確かめるようにして読む。


「ま、ゆ……み?」

「ん――」


 そのとき、ゆっくりと、彼女が目を覚ます。それから、泣きじゃくって赤みがかった目をこすり、僕に気がつくと――固まった。


「やっほー、まなちゃん。元気?」

「あんた、誰?」

「え……えええ!! 嘘でしょ!? 僕、君に告白してビンタされたんだけど? え、何、記憶喪失?」

「んー……ダメね。思い出せないわ。多分、殴ってすっきりしたから、忘れたんでしょうね」

「うそん」


 殴られ損にもほどがある。しかも、その後、気絶までしているのだ。まあ、自業自得だが。


 それから、癖なのか、まなは右腕を握ろうとして、袖が捲れていることに気がつく。それから、僕の顔に視線を移す。


「――見た?」

「うん、見ちゃった」

「そう……まあいいわ」


 ――おかしい。普通はもっと、動揺したりするものだろうに。弱味を握れば、やりやすいと思ったのだが。


 何事もなかったかのように、袖を下ろそうとする彼女の腕を僕は掴む。


「うっ……」


 掴んだところが痛むのか、彼女は小さくうめいた。


「これ、新しい傷もあるよね。それも、一ヶ月前とか、そんな話じゃない。昨日つけたばかりみたいな傷だ」

「そうでしょうね。今朝つけたばかりだから」

「そっか」


 真新しい傷を指でなぞるが、まなは顔色一つ変えない。とはいえ、時折、体が震えているため、痛むのは間違いないらしい。


「まゆみって、誰?」


 そう尋ねると、まなは、まばたきの回数を増やす。


「誰、って聞かれたのは初めてだわ」

「僕の故郷なら、みんな人の名前だってわかるよ。この世界じゃ分からないかもしれないけど」

「あかりって、どこから来たの?」


 そう尋ねられて、僕は目を丸くする。


「日本だけど、それより……名前、覚えてたんだ」

「変な名前だってことは思い出したわ」

「そうなんだ――。ま、まゆみってのも、みんなからしたら十分、変な名前だと思うけどね」


 それかけた話題を元に戻す。


「……まあ、名前の雰囲気が似てたから覚えてた、っていうのはあるわね」

「それで、まゆみって、誰?」


 彼女は小さくため息をつく。


「言ったって、すぐに忘れるわよ」

「どういうこと?」

「これは、そういう『呪い』だから」


 彼女は、顔色一つ変えずにそう言った。

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