第0節 運命の別れ

第0-1話

 ――人肉を食べたことはあるだろうか。


 この問いに「はい」と答える人は、まず、いないだろう。だから、もう少し、質問のレベルを落としてみる。


 ――両親を殺された。


 この質問も、ほとんどの人には当てはまらないだろう。事故や病気というのはあっても、殺人となると、ぐっと数は減るのではないだろうか。では、これはどうか。


 ――小学校に行ったことがない。


 まあ、ほとんどいないにしても、先の二つよりは多いのではないだろうか。とはいえ、行かなかった理由は様々だろうし、小学校ではない場所で学んでいた、なんてのもあるかもしれない。それに、僕の場合は「行けなかった」の方が正しい。


 ――双子である。


 これは、それなりに多いのではないだろうか。もちろん、「先の二つと比べたら」という、枕詞をつけることにはなるが。ちなみに僕には、双子の妹がいる。つまり、二卵性ということだ。


 ――PTSDを抱えている。


 簡単に言えば「トラウマ」と呼ばれるやつだが、例えば、「虫にトラウマがある」なんてのは、ほとんどの場合、ただの虫嫌いで、トラウマではないと僕は思う。フラッシュバックが起こったり、発作が起こったりしたことがあれば、それは間違いなくトラウマと呼んで差し支えないだろうが。ちなみに、僕は、虫に出会うと頭が真っ白になるくらいの虫嫌いだ。


 ――体のどこかが不自由である。


 大きいものから小さいものまで全部ひっくるめたら、これはおそらく、想像よりずっと多い。僕は生まれつき足が不自由で、昔は車椅子生活を強いられていた。


 ――家庭内暴力を受けたことがある。


 家庭内暴力といっても、殴る蹴るの暴行から、暴言や無視などの精神的な暴力まで様々だ。こうなると、案外、とても多いような気がしている。数字に現れるよりもずっと。


 ――自殺を考えたことがある。


 実行に移すまでいかなくとも、考えたことのある人なんて、どれだけでもいるだろう。むしろ、考えたことのない人間の方が稀なくらいではないだろうか。


 とまあ、色々並べてはみたが、その通り。僕はこれらの条件をすべてクリアしている。


「――つまり僕って、超特別な存在じゃない? そのうち、右目が疼いたり、第三の目が開眼したり、右手が疼いたり、異世界に転生したり。そういうことがあってもいいんじゃないかと思うんだけど」

「お兄ちゃんって、馬鹿だよね」


「いやいや、いつか僕に施されている封印が解けて、無双することになるんだよ。きっとね」

「お兄ちゃんは女遊びで無双してるじゃん?」


「あ、確かに! 視点変えたらそうなるね! 朱里って、もしかして天才?」

「そりゃあ、ボク、お兄ちゃんの妹だからねえ」


「ははは。――ってことは、僕も天才ってこと?」

「お兄ちゃんは優秀だと思うよ」


「それってどういう意味?」


 ――もう一つだけ、問いたい。


 双子の妹と、おはようからお休みまで一緒で、毎日、体を洗い合っていて、下の世話までされて、全裸で抱き合って、襲われたことのある男子。


「オモチャとして優秀ってことだよ。だって――どれだけ遊んでも、壊れないんだもん」


 ――その妹に、沸騰した油をぶっかけられたり、冷水シャワーを浴びせられたり、お腹に包丁であいあい傘を刻まれたりしたことのある人。



 これが僕の自己紹介だ。



***


 そんな僕の現在。――どうやら、異世界に召喚されたっぽい。


 召喚される直前が、今のところ、僕の人生で一番の修羅場だったかな。


 いつもみたいに女の子を引っかけてたら、急に激怒してるボスが現れた。なんとビックリ、なんでも、僕が引っかけた女性たちの中に、偶然、僕が所属する「清掃業」のボスの奥さんが混じってたんだって。しかも、妊娠させちゃってたっていう。


 いや、ボス、何歳よ? 見た感じだけど、もう五十近いじゃん? それが、二十六歳の綺麗なお姉さんと結婚してるって。完全に財布じゃん。


 ちなみに僕は、体を見れば年齢が分かる特殊能力を持っている。お姉さんは二十四と自称していたが、そんなことでは誤魔化されない。わざわざ誰かに言ったりはしないけど。


 さらに言えば、僕の妹はボスの愛人だ。とはいえ、上手くかわしていたみたいで、キスすらしたことがないらしい。そして、僕はその繋がりで組織とやらに無理やり入れられ、清掃業の傍ら、男娼させられたというわけ。理不尽な世の中だ。


 ――というわけで、これはさすがにヤバイと判断し、僕は妹を連れて必死に逃げた。ただ、僕は生まれつき足が弱く、意地と気合いと根性で、なんとか歩けるようになったはいいものの、走るのがものすごく遅かった。


 そんなこんなで、人生初、チャカを額に突きつけられる、ガチ修羅場。集団リンチは、するのもされるのも慣れているけど、拳銃を突きつけられるのは初めてだった。


 地面にへたりこんで、妹を庇い、ぼんやりとボスの顔を見つめる。


 齢十三。ここで人生終了か。どうせ死ぬなら、可愛い女の子に殺されたかったなあ。


 ――なんて感傷に浸っていたその直後、謎の光に包まれて、気がつくと、知らない場所にいた。



 どう? 僕の人生、意味不明すぎない? ま、でも大丈夫。多分、僕が一番、よく分かってない。



「気分はどうですか?」


 鳥のさえずりみたいな声。これは、お約束の展開かな。そう、美少女に召喚されたのだきっと。



 視線を上げると、目の前に、美少女がい――たあああ!? いや、美少女もビックリな美少女なんだけど!! なにごと!?


 腰まで伸びた桃色のウェーブがかった髪、レモン色の澄んだ大きな目、血色のいい白い肌、ぷるぷるの真っ赤な唇、芸術的なスタァイル。甘い声、穢れを知らない無垢な瞳、細くしなやかな指、そして、この笑顔。しかも、この至近距離。いい匂いだあはぁ……!


 これ、普通の人が食らったら、尊死とうとしすると思う。これが異世界レベルかあ。



 ――ああ。めちゃくちゃに壊してやりたい。



 と、そのとき、無意識に掴んでいた腕がわずかに動いた。ちらと見ると、そこには、いつも通りツインテールの妹がいた。――目の前が絶景すぎて、完全に忘れていた。


『お兄ちゃん、まさか、この子のこと、可愛いとか思ってないよね?』


 とでも言いたげな黒瞳だ。いや、これは、嘘でも可愛くないとは言えないレベルだぜマイ妹よ――なんて心の端で思いつつも、表面に出す感情は、


『当然。朱里だけが可愛いと思ってるよ』


 これが正解だ。


 周りの様子をうかがうと、なんだか偉そうな人がたくさんいた。敵意はないようだが、騒がしい。この場を占める感情の大半は、驚き、といったところか。何か想定外があったのかもしれない。


「皆さん、静粛に。ご安心ください。彼らが勇者様で間違いありません」


 と、目の前の美少女は声を響かせる。その一言で水を打ったように場は静まり返る。


 だが、彼女にもまったく動揺の色がないかと問われると、そうではなかった。どちらかといえば、無理に毅然としている印象だ。


 ――とまあ、こんなにもわけの分からない状況だが、僕は意外にも、落ち着いていた。だって、拳銃で打たれて死ぬところを、助けてもらったようなものなのだ。その方法がだいぶ特殊だったというだけで。


 それに、「勇者」という単語が聞こえたため、だいたいの状況は理解できる。足が動かない僕には、家ではもっぱらアニメを観るくらいしかやることがなかったので、よく知っている。読書を考えたこともあったが、そもそも、小学校に行っていないので、ひらがなすらろくに読み書きできない。必要最低限の名前や住所などは書けるように仕込まれたが。


 ともあれ、状況を鑑みるに、おそらく、召喚されたのだ。となると、予想される問題は、「どちらが勇者なのか」ということ。はたまた、両方勇者とか、そろってやっと一人前とか、実はどっちとも違う、なんて可能性もある。――ただまあ、聞かずとも結果は見えているようなものだが。


 これでも、僕が落ち着いているのが納得できない、普通、もっと慌てるはずだ、という人のために付け加えるなら、こうだ。



 ――僕は、妹の前で、素直な感情を表に出してはいけない。



 つまるところ、妹が怖すぎて、躾られているうちに、驚き方を忘れたというわけだ。それからもう一つ。



 ――妹は自分より優れた兄など、必要としていない。



 というわけで、妹が動揺している間は、僕は動揺しているフリをしなくてはならない。すると、逆に冷静になれるのだ。


 そこまで考えたあたりで、やっと、朱里が立ち上がり、スカートの汚れを落とした。その汚れた手で、僕の腕を掴み、無理やり引っ張り上げる。痛い、というのも表に出してはいけない。なんなら、人に触れられるだけで吐きそうになるが、それも隠す必要がある。もちろん、朱里も例外ではない。


 というわけで、やっと僕は立ち上がることを許された。すでに立っているのがやっとなくらいに気持ち悪い。


「えっと、まだ状況が理解しきれていないのですが、ここは、どこでしょうか?」


 なんて、純朴そうに、朱里が美少女へと尋ねる。その取り繕った態度ですら吐き気がする。どうせ、状況など、とうに理解できているだろうに。


「ここは、あなたたちの言うところの、異世界です。勝手ながら、私がここにお呼びいたしました。私は、マナ・クラン・ゴールスファと申し――」


『お兄ちゃん、何してるの? ほら、早く遮って、嫌われないと』


 と、朱里から無茶苦茶な指示が入った。美少女――マナ・クラン・ゴールスファを攻略するルートは完全に絶たれたらしい。ちくしょう。


 ということで、僕はあえて、ため口を選ぶことにする。もちろん、偉そうな人が多く、彼女も敬語を使っているからだ。嫌われるには、一番いい。


「本当に勝手だねえ。ま、なんでもいいけどさ。それで、どっちが勇者なの?」


 と、尋ねると、美少女はわずかに驚きを見せる。――ああ、やってしまった。これでは、僕の方が朱里よりも理解が早く、落ち着いているように見える。後で怒られるだろうな。


「勇者は、名を、えのしたあかり、と、そう仰るそうです」




 榎下朱里――やっぱり、勇者は妹の方らしい。そりゃそうだ。そうでなければ、僕がここまで一方的に酷い目に遭わされている理由に説明がつかない。


「それなら、兄の方ですが……。彼が榎下朱里です。私は、あかりの双子の妹で、榎下朱音と申します」

「あかねさんと、あかりさんで、間違いないでしょうか?」


 ――あれ? なんか、ちょっと考え事してる間に話が変な方に進んでるんだけど。


 僕が榎下朱里です? いやいや、榎下朱里は君でしょ。僕が榎下朱音だって。


 ここで勇者だと嘘をつくのはよくない、と本能的に感じた。まあ、本能などなくとも、さすがにそれくらいは考えて分かるが。


 分かりはしたのだが、振り返った妹は――笑みを浮かべていた。これ以上ないくらいの、恐ろしい笑みだ。逆らうことなど、できるはずもない。


「――そう、僕があかり。ってことは、僕が勇者ってこと?」

「はい。その通りです」

「ふーん……。勇者ってことは、世界を救う、的な?」


 今さら尋ねても遅いかもしれないが、まだ理解できていないのだと、アピールしておく。本当は今から三秒後に魔王を倒しに行け、と言われても動けるくらいには理解していたが。倒せるかどうかはともかく。


「はい、そうです。詳しいお話がしたいので、談話室の方へ――」


『お兄ちゃん、第一印象はできるだけ悪くしてね?』


 と、頼まれたので、仕方なく、僕は再び、桃髪美少女の、耳がとろけそうなほど優しい声を遮る。


「ここで一番偉い人って誰?」

「あちらの、玉座におられる、この国の国王ですが……」

「へー。そうなんだ」


 ――はい、玉座。いや、そうだよね。うん。勇者呼び出すってなったらさ、やっぱり、国王いるよね。


 でも、国王、王様かあ……。嫌だなあ……。


 なんて思いつつも、僕の足は玉座へと進んでいく。自分の意思ではあるが、ほぼ強制だ。


 そうして玉座の前にたどり着いた僕は、王様の怖そうな顔を、舐め腐った表情を作って見下ろす。ここで死ぬかもしれないな、なんて思いながら、僕は、覚悟を、決める。深呼吸はするなよ、僕。あくまで自然に。



「ねーねー、国王サマ。もし、世界を救ってほしいんなら、土下座して頼んでよ。誠意が感じられないと、僕、勇者、やらないよ?」



 ――あー、言ーっちゃった言っちゃったっ。オワター。はい、異世界ライフ、終了。無礼討ちで死ぬかなあ。どうせ死ぬなら、魔法の一つくらい使ってみたかったなあ。


 と、重たい沈黙と、どん底な未来への不安を、脳内の呟きで必死に誤魔化す。


 すると、


「ふっ……あは、あはは!」


 美少女が、急に笑い始めた。なんにも面白いこと言ってないと思うんだけど、なにごと?


 他の人たちも混乱してるっぽいし、笑ってるのは美少女だけか。


 ――なんて思っていると、僕を捕まえようとしていた兵士たちが、そろって道を開け始めた。その理由を思考している最中、細い指が僕の肩を掴んで、無理やり振り返らせる。


 振り返ると、息のかかりそうな距離に、美少女がいた。


「え、何――」

「奥歯を、食いしばりなさい」


 触れられたことで身構えて、素で答えてしまった。


 ――近づく平手が、スローモーションに見える。避けてはいけないと、逃げ出したい感情を、殺す。それが、頬に到達した瞬間、想像を絶する鋭い痛みとともに、衝撃が走り、体が浮いて、世界がくるくると反転する。



 はは、この美少女、めちゃくちゃ強い。



 そんな感想を最後に、僕は意識を失った。

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