第2話 「墓に手錠を手向けたい」エッセイ賞 応募

 市から娘宛に婦人科検診を促す無料の受診券が届いた。

「受診するなら絶対に女医さんに診て貰いなさい」そう言って記憶が掘り起こされてゆく、今なら受け止められると思った。

 酷い頭痛に耐えながら、あの頃に意識を集中させると脳裏に凝り固まっていた蓋が潰れた。〝ブチッ〟一瞬血管が切れたのかとヒヤリとするが体に異変はない。ジワジワと見え始める。最初はおぼろげであるが徐々に鮮明になる。まるで三十四年前にワープしているかのようだ、今の私は二十一歳、此処は県立S病院の婦人科外来診察室

「妊娠できない体になりたいのか!」と、突然M医師に怒鳴られた。中学生の頃より酷い生理痛に苦しめられていた私の覚悟を決めての婦人科通院だった。初診の日には恥ずかしさを紛らわすために童顔を隠すべく厚めの化粧と地味な衣装を着用し、別人になりきっての受診であった。基礎体温を測り準備万全の初診、その値と内診による診断により子宮が未熟であるため女性ホルモン服用による治療がなされることになった。その三回目の診察室での出来事である。私は〝妊娠出来ない″の言葉に衝撃を受け、偉ぶる医師にこう言い返す、「『前回と同じように飲め』と云われたから次の低体温期を待って飲み始めました『今度は高体温期に飲め』と説明されていたら正しく飲んでいました」生意気な看護学生の言葉に苛立ったMは舌打ちし「内診するから上がれ!」と命令し〝えっ″という表情の私に「妊娠出来なくてもいいのか!」と怒鳴った。〝妊娠出来ない〟という言葉には逆らえず渋々内診台へ上がると、初診時よりも大きく開脚させられたような気がする。そして「頭が痛くなるような音が出るから、耳を塞いどけ、聞こえたら耳が壊れるかも知れんからしっかり押さえろ」と指示され、Mは仕切りのカーテンを捲り、私が耳を塞ぐのを確認してから内診台を作動させた。ゴーッと上がる内診台は耳の奥で低く響き全身に振動が伝わった、最も高い位置で止まった、不安と恐怖に苛まれながら必死に耳を塞ぎ足を強張らせ覚悟の時を待った。しかし何も触れられることなく内診台は振動を響かせながら下がり、股関節に痛みに耐えながら、そのまま待たされていた。しばらくしてカーテンの向こうから「先生診察しているのですか?」という看護師の声が聞こえ、その後に「もう終わりましたから降りていいですよ」と云われたのだ。私は拍子抜けしながらもホットしていた、けれども検査を拒否されたのだろうか、妊娠は出来るのだろうかと不安になりMの待つ診察室に戻ると「診察されたいのか、嫌なんやろ、もう帰れ」と吐き捨てるように追い出したのだ(私だって御免だ)屈辱と腹立たしさと、妊娠できなくなったかも知れないという不安を抱えながら会計へと向かった。

 名前が呼ばれたのは総合受付カウンターである。看護実習生として何度も訪れている病院ではあるが、患者の立場で診察から会計までの流れを熟知していなかった私は疑問を抱くことなくそこへ向かった。そして同年代の若い男性事務員から入れ替わり立ち代わり何度も名前を確認された。「なぜ同じ事ばかり聞くのですか」と不機嫌な態度で問いかけたが、ニヤニヤされるだけだった。

 それからしばらくして看護学校で婦人科疾患の講義が始まった。講師はあのM林医師、単位を取らなければ卒業できないから机に顔を伏せ出席していた。多分その態度が勘に障ったのだろう、最初はまともな授業であったが、途中からこんな余談話を聞かせ始めた。

「若い男子事務員らのために、若い患者が受診した時にはカルテ表紙の右上に、性器の特徴を描いたるんや、処女膜顕在な膣、半分敗れている膣、完全に消失している膣、恥毛の量も生えている範囲も人それぞれやから斜線でこんな風に表現してるんや、若い男子らはそんなんでも興奮するんやで、たまにお土産付きや」と黒板に何パターンもイラストを描いたのだ。私はそのイラストに衝撃を受け「お土産付き」のくだりを聞き洩らしていた。そしてあの日の事務員たちの目が次々に浮かんだ。まるで餌に群がるカワハギの稚魚のような、のぼーっとした横顔の男たちが、カルテに群がっていた、その目はカルテと私の顔を交互に観ていた。ごった返すようにカルテに見入り、鼻血を出す者も二三人いて、鼻を抑えながら観られていた。恥辱感を浴びせられ泣きそうになったが、Mの顔がほくそ笑んでいるように見えたので唇をかみしめ堪えていた。その後私は卒業可能な単位数しか出席しなくなった。Mのしたり顔が目に浮かぶ。最後の講義で机に伏す私の態度を窓越から見ていた担任のK教員に教務室に呼びだされた。それは自分から弱音を吐きたくない私には救いの手であった。厳しい口調でとがめるK教員に対し、感情を爆発させ泣き声交じりにボイコットの正当性を訴えた。他の教員たちにも伝わった。みな絶句の表情を呈し、それでも何か言わんとして

「イラストくらいで鼻血を出すとは、おぼこいな~」と笑い飛ばそうとする場面もあったが教務主任から

「内診はされたの?」と聞かれたので、記憶の限りを話し終え

「耳を塞がなければならないような検査とはどんな検査ですか」と尋ねると誰もが首を傾げていた、すると教務主任の方からため息交じりに

「消したんや」と漏れ聞こえた。私には意味が分からなかったが、同じようにキョトンとしている教員たちに教務主任はメモが回して、それを見た教員たちは絶句の表情をていしていた。そのメモは私の隣のK担任で留まり、私には見せてもらえなかった。教務主任の顔貌は鬼瓦の様相となり

「これから抗議に行く」と言って席を立たれた。隣接しているS病院看護部長に会いに行ってくれたのだ。しかし、その日は会議中という理由で会えなかったらしい、その後も何度か面会を試みて貰えたそうだが、

「なんか変や、いつも会議中なんや、でもS病院での実習は終わっているから、それだけでも幸いや」と背中を摩って貰った。また単位も大丈夫だと云われたことで私は安堵し婦人科で起こっていた記憶を封印することになったのだ。

 あれから三四年経ち私は勘づいた。耳を塞がなければならないような検査など存在しないことも分かっている。それに誠実に対応してくれた男女三名の事務員がいてくれたことも思い出され、彼らの口から

「写真は点数にいれたらあかんな」というヒソヒソ声も聞き取っていた

「写真ですって、レントゲン写真は撮っていませんから」と勘違いして詰め寄っていたが、その写真は「盗撮写真」だったのだ。私は真実に気づいた瞬間、あのカウンターの前で見世物になっていた。

 二十一歳の私が恥辱に晒されている、声を殺して泣いている、あの子が哀れで痛々しい、あの子は私、私も恥辱を浴びている、そして何より、盗撮をさせるために自分で自分の耳を塞ぎシャッター音消していたことが悔しくて堪らない。

 当時の私は陽気に振舞ってはいたがもろかった。もしも事実を察知していたなら今の私は自ら命を絶っていて、今ここに存在していなかったかもしれない、だからといって怒らずにはいられない。怨嗟えんさの念に縛られ、もがき苦しみ、眠れない日が続いても、脳裏を突き続けた。明るさを失い滅入りっぱなしの私は家族たちにうんざりされ「乙女でもあるまいし」という目でため息を吐かれる。しかし過去が鮮明に見えている時の私は二十一歳の女の子なのだ。

 寄り添ってあげられるのも、奴らに鉄槌を下してやれるのも私だけなのだ。

 私は奴らの顔を観ようと意識を集中させていた。しかし似たり寄ったりの面ばかりで区別がつかない、カルテをむさぼる横顔はカワハギで、真正面で見合っているキツネは火照っている、こいつらは私の個人情報を全て知っているというのに、私はこいつらの事を何も知らない。S病院に張り込み、身長170㎝前後、50歳代の顎が細めの男を尾行し、住処を突き止めてから甚振(いたぶ)り方を捻ることにしよう。

 さて最も卑劣なのがM医師である、七〇歳を過ぎた医師が二一歳の女の子をはずかしめるとは何事だ、それでも婦人科医か、訴えたくても百歳を超え、既に死去しているだろうから何も出来ないのか、死者にも医師免許を剥奪という不名誉を与えたいが、無理だろうからM家の墓を探しだし手錠と逮捕状を手向けてやりたい。  

「S病院に行って確かめたいけれど、いつも会議、会議と言って取り合ってくれない、何か変だ」と苦々しそうにつぶやく教務主任の顔が見えてきた、おそらく「盗撮」が隠ぺいされていたのだろう。しかし事務職員へのモラル教育は徹底されなかったようだ。


 三十歳の頃、私は看護学生の実習指導者としてあの病院に行っていたことがあり、社員食堂を利用していた。食堂へ向かう狭い階段で、すれ違い様に私の顔を見て驚き、避けるように端を歩く同年代の男性事務員が数人いた。私の名札を確認し挙動不審になった者もいた。カワハギに似ているから奴らだ。そのカワハギに「このヒトが生理の」と小声で隣の人に伝える声が聞こえ、私は振り向いていた。(そうだ、あの診察日は低体温期二日目だから生理二日目の多い日だった、しかもティシュで拭ってから内診台へ上ったのに下腹部を押され流血を促され、洗浄もされずに降ろされたことが不愉快だった)

 生理フェチの奴らは私が何も覚えていなかったことをいいことに、毎回すれ違いざまに臀部に指をさし「血」「血」と発し、私が白衣の汚れを確認すると「生理中や」と言って面白がっていた。階段の踊り場で待ち伏せし、私の顔の下に写真らしきものを翳してニヤニヤ観られたことがある「何を見ているの」と写真を引っ手繰ろうとすると、焦ってそれを仲間に渡し一斉に逃げて行った。別の日には食事中に後ろの方でキツネ男が「生理好きや」と発し、振り向くと写真に群がるカワハギ5・6匹が目を伏せた。その猥褻ぶりに女子社員は退散し、食堂は奴らと私と看護学生のグループだけになっていた。おそらくM林医師は違法にならないようカルテに「月経過多」と疾病名を記載し写真を添付したのだろう、事務員ならカルテ室への出入りは自由だ、私の名前を覚えるほど何度も覗きに行ったのだろう、ポラロイドカメラで複製をつくることも可能だ。不思議なのが十年も経っているというのに、すれ違っただけで私の顔が認識できたということは、どこかで顔写真まで撮られていたに違いない、〝気色悪い〟〝身の毛がよだつ″県職員という蓑を着せ猥褻魔を野晴らしにしていたS病院も憎い。現在50歳代の奴らは電子カルテとなったことを「昔は良かった」と若い事務員達に語っていそうだ。そして今も婦人科医にスマホ撮りをねだっているに違いない、私の記憶は奴らに鉄槌を下すために蘇ったのだと思えてならない。(完)                                  

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