物語の落着

葛桂の春①

「……おいっ、馬鹿猿この野郎ぉっ!」


 はぁはぁと肩で息をし、前方を悠々と歩く飛助に向かって白狼丸は忌々しげに舌打ちをした。


「なぁ〜にぃ〜?」


 小憎たらしい顔をしてこちらをくるりと振り向くと、明るい栗色の髪が陽の光を受けて輝く。さっぱりと短いその髪を見て、暖かくなると長い髪なんて邪魔なだけだと思う。愛しい妻が気に入っていなけりゃ青衣に苦無くないでも借りてばっさりと刈り取っているところだ。


「何でっ、おれがっ!」


 あの時葛籠を運んだ荷車に、一体何に使うのかも見当がつかないようなあれこれを載せ、それを白狼丸はえっちらおっちらと引いている。その上――、


「白狼丸、遅いですわ! 太郎様に置いていかれるではありませんか! ほら、急ぎなさい!」


 その荷車にはちゃっかりと雛乃まで乗っている。


「仕方ないじゃん。お嬢様がどうしても行くってきかないんだからさぁ」


 それとも何? お嬢様にこぉんな山道歩かせろって? と目を細めると、言い返すことも出来ずに「くっそぉ」と唸るのみだ。


「やっぱり俺も手伝うよ、白狼丸」


 と、飛助の隣にいた太郎が荷車に駆け寄ろうとするが、その手をくい、と引かれて立ち止まる。


「駄目駄目、タロちゃんはこっち!」

「だけど」

「出発前に決めただろ? タロちゃんは演者のご機嫌とりだって」

「そもそも何だその『ご機嫌とり』って!」


 汗まみれの白狼丸が声を荒らげると、「興奮するんじゃァないよ、消耗するだろゥ?」と青衣が、白狼丸の首にかけられた白布で額の汗を拭ってやる。


「えー? 演者ってさぁ、繊細なんだよねぇ。少しでも気持ちに憂いとかぁ、迷いがあるとさぁ、良い芸が出来ないもんなの」


 言ったろ、おいら繊細だって、と言って繊細の『せ』の字もないような顔でけらけらと笑う。


葛桂くずがつらのじいちゃんばあちゃん達、おいらの芸をそれはそれは楽しみにしてくれてるんだからさ、そりゃあ万全の状態で臨みたいじゃんか。タロちゃんもそう思うよな?」

「それは……もちろん」

「だったらタロちゃんはこーこ! ねっ?」


 ぎゅ、と手を握って笑いかけると、仕方ないなぁ、と太郎も頷く。演者の精神状態が芸事にどんな影響を及ぼすかなど皆目検討もつかない太郎と白狼丸は、そう言われてしまうと黙る他ない。多少齧っている青衣にしても、まぁそれは確かにと思える話ではあったから、今回ばかりはと目を瞑っている。


 けれども。


「太郎様から手を放しなさい、飛助!」


 雛乃だけはそういうわけにもいかなかったらしい。小さな手をぎゅっと握り締め、顔を真っ赤にして立ち上がるものだから、「おっ、おい嬢ちゃん! 危ねぇから!」とその荷車を引く白狼丸は気が気ではない。


 悋気を起こす雛乃も、慌てふためく白狼丸も、どちらも愉快でたまらんと、青衣は抜けるような青空の下で、ほっほ、と目を細めた。



「……おや?」


 ここを越えればもうすぐだ、というところで、飛助は、あるべきはずのものがないことに気がついた。そしてその代わりに、見たことのないものがある。


 つまりは、そこにきちんと並んでいたはずの地蔵達がおらず、彼らのために建てられたのであろう、簡素な屋根――といってもそれは本当に簡素であったが――があった、ということである。


 まさかせっかく屋根まで建てたというのに、地蔵の方を移動させたわけではあるまい。かといって盗まれるようなものでもないし、みすみす盗まれるような者達でもないはずだ。


「……てことは」


 そこで飛助は一つの可能性に思い至り、やはりえっちらおっちらと荷車を引く白狼丸に向かって声を上げた。


「白ちゃぁん、急いで急いで! お客さんが待ってる!」


 地蔵様達め、おいらの芸がそんなに見たいか。


 にしし、と笑って、半ば駆け出しそうになりながら、山道を行く。


 それに――、


 当然のように七体目の地蔵もなかった。

 

 小萩も見に来てくれるのだ。あの狐の小萩も。約束通りに。



 雪が溶けて真っ先に飛助がしたことは、小萩の墓参りだった。いままで来られなかったことを詫び、近況やら何やらを時も忘れてたっぷりと報告して、そして、


「もう少し暖かくなったら、葛桂の方で芸をするんだ」


 と、そう言うと。


 背後から聞こえてきたのは「こん」という狐の声だった。


 空の橙色と紺色が混ざろうとする時間だった。

 そこにいたのは黄金色の毛皮を持つ、あの時よりも一周り大きくなったようにも見えた狐である。獣の見分けなど平素はまずつかないのに、彼にはそれが『小萩』と呼んでいた狐だとわかった。


 けれど本物の小萩の前で、小萩と呼んで良いものかと迷う。女というのは生まれた時から女なのだ。自分以外の者にその名を与えて愛でていたなどと知られれば、いくら十のわっぱでも――いやその年なればこそ面白くはないだろう。いくら相手は狐の子といえども自分は土の下から動けないのだから。


 そんなことを考えていまだ言葉の一つもかけられないでいる飛助の前で、狐はくるりと宙返りし、小萩の姿になって見せた。そして言うのである。


「飛兄、心配いらないよ」と。


 早く大きくなる、とあの時ぐずった割に、小萩の姿は十の頃のままだった。

 これもまた本物と思っていても、本人の墓の前で手を伸ばしづらい。


 そんな彼に小萩は尚も「心配いらないったら」と笑うのである。


「地蔵様の力を少しだけ借りてきたんだ。狐の身体だけど、ちゃぁんとあたいも中にいるよ。飛兄の小萩だよ」

「そ……そうなのか?」

「狐の小萩はね、地蔵様に連れられて、夜たまぁに遊びに来てくれるんだ。それで朝まで一緒に遊ぶんだよ」


 当然のように飛助の膝の上に座り、にこにこと、あの時よりも少し丸くなった顔で笑う。


「あたいはあんまりここから動けないから、狐の小萩があたいの代わりに飛兄の芸を見て来てくれるんだって」

「そうか……そうか」

「ねぇ、傘回しはする? 綱渡りは?」

「おうおう、なぁんでもやるさ。おいらが出来るやつはなぁんでもやるよ。傘なんか竹馬に乗って回してやるし、綱も渡るし、縄抜けもするし曲鞠もやる。それから、白ちゃんの頭に林檎でも乗せて錐でも投げてやろうかな」


 さすがにそれはやったことないけど、と言って、あっはっはと笑っていると、「もうし」と後ろから声をかけられた。うわぁ誰、と振り向くと、なんてことはない、この寺の住職である。


「随分と長い時間おられますなぁ。ですが、もう夜も更けましたんでな、そろそろよろしいでしょうか」


 わぁ、すみません、と返答して気付く。

 さっきまで確かに膝の上にいた小萩がどこにもいない。夢でも見ていたのか、それこそ狐に化かされたかと思ったが、自分を化かす狐などあの小萩しかいない。それならそれで、と飛助は苦笑した。


 夢だったかもしれない。

 幻だったかもしれない。


 そう思っていたけれども。

 

 だけれども、あそこの地蔵達が揃っていないということは、やはりあれは夢でも幻でもなかったのだ。


 ほら、急げ急げ、と真っ赤な顔で荷車を引く白狼丸をけしかけつつ、飛助は太郎の手を取って集落を目指した。

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