大きな嘘②

「あ、東砂あずさ……? 雀は……」

「アンタは黙ってな。ええと、魅鳥みどりさんとおっしゃいましたかね。そうでしょう? 犬や猫の子でもあるまいし、返せと言われたってほいほいと返せるものではありませんよ」

「わかっております。ですから、これまでの御礼は――」

「いくら金を積まれたってね、雀は渡しません。私達の大事な大事な子どもなんです」

「そんな――」


 魅鳥は、袖で顔を覆い、おいおいと泣いた。


「けれど、奥方様の言い分もごもっともでございます。ならばせめて、これからの援助をさせてはいただけませんか。血の繋がった孫娘に出来る限りのことをさせてやりたいという大旦那様の気持ちをぜひ受け取ってはいただけませんでしょうか。このままではわたくしも屋敷へ戻れません」


 ぜひ、ぜひ、と床に額を擦りつけるようにして懇願され、正平はやはり狼狽えた。もういない娘に何の援助がいるものか、と妻を見たが、彼女は口元ににんまりと弧を引いて、「そうですねぇ」と愉快そうに言った。その顔が恐ろしくて、正平はただただ黙っていた。


「わかりました。そこまでおっしゃるのでしたら、お受けしましょう」


 勿体つけるように、渋々といった口調でそう言うと、魅鳥はありがとうございます、と涙を滲ませながら顔を上げた。


 では、と言って、指をさしたのは、先ほど正平が中へと運んだ葛籠である。東砂は内心「待ってました」と舌なめずりをして、けれど当然顔には出さずに、澄まし顔で「何でしょう」と言う。


「こちら、実は中は空なんです。馬鹿に軽かったでしょう?」

「そ、それは、まぁ」


 尋ねられた正平は、ぎくりと肩を震わせた。


「空? どういうこと?」

「まずはきちんとお話をして、承諾を頂いてから、と考えておりましたもので。ええと、それで――」


 などと言いながら、立ち上がり、すそそ、と足を滑らせるようにして葛籠の前まで移動すると、するり、と紐を解いて蓋を開け、中から小さな葛籠を取り出した。


「これまで鈴様を育ててくださった御礼と、これからの援助につきましては、こちらの葛籠、どちらかに入れてお渡ししようかと。実際に大きさを見ていただいた方がよろしいかと思いまして」

「どちらかに、入れて……?」

「左様でございます。どちらを選んで頂いても、もちろん、みっちりと隙間なく詰め込みますので、大きい葛籠だからといって、中身がすかすか、などということはございません」


 はぁ、と正平は気の抜けた声を発した。

 東砂もまた、口をぽかりと開けていた。


 何を言っているのだ、この女は。


 東砂はそう考えていた。

 ならば、どう考えても大きい方を選んだ方が良いに決まっている。


「どうぞ」


「お好きな方を」


「お選びください」


 幼子に言い含めるように、ゆっくりと区切ってそう言うと、魅鳥はにんまりと笑った。左目の下に小さな黒子のある、妙に婀娜っぽい女である。


「あ――あの、私達は本当に……その……」


 そんなものは受け取れません、とボソボソと言う正平の肩を叩いて黙らせ、東砂は、「大きい方! 大きい方でお願いします! 娘も十ともなれば、そりゃあ色々と入り用で」と声を張り上げた。


「かしこまりました。では、明後日、この大きな葛籠にみっしりと御礼の品を詰めて再び参ります」


 そう言うと、魅鳥は小さい葛籠を再び大きい方へ収納し、それを抱えて立ち上がった。中が空だと思えば、か弱い女性でも運べなくはない。とはいえ、歩きにくそうではある。まして、雪道だ。


「あの、もしよろしければ、お屋敷まで運びましょうか」


 正平が申し出ると、魅鳥は何とお優しい、と身体をくねらせ、甘えたような声を出した。この女、人の亭主に色目を使いやがって、と東砂が軽く舌打ちをすると、それに気付いてか、魅鳥は「でも」と眉を下げる。


「すぐそこに迎えの者がおりますので、そのお心遣いだけで結構でございます」


 小首を傾げて儚げな笑みを向けられれば、すぐそばに妻がいることも忘れて、思わず見入ってしまう。そんな腑抜けた亭主の頬を抓ってやると、正平は「ぎぃぃ」と声にならない悲鳴を上げた。



 魅鳥が出て行った後――。


「何だい、アンタって人は! ちょっと美人だからって!」

「そんなつもりじゃ――、い、いや、それよりも!」


 ぶるぶると勢いよく頭を振って「さっきの! お前どういうつもりだ!」と声を荒らげる。


「しぃ、静かにおしよ。まだ、あの女が近くにいるかもしれないだろ?」

「そ、それはそうだが……。でも、雀はもういないのに、これからの援助も何も……」


 雀はもういない、という自分の言葉でそれを改めて認識し、先ほどの妙な興奮が急激に冷める。もうあの愛しい子はいないのだ。


「馬鹿だねぇ」


 そんな傷心の正平を鼻で笑い、東砂は続けた。


「あの子を育てるのにこれまでどれだけ苦労したと思ってるんだい。時間も金も何もかもあの子に取られてきたんだ。まず、その分は返してもらわないと」

「それは……そうかもしれないが」


 一日の大半を外で過ごしていた正平は、雀が東砂からどんな仕打ちを受けていたかを知らない。世話のすべてを任せてしまったという負い目から、そう返す。


「それにねぇ、人助けだとは思わないかい?」

「人助け?」

「その大旦那様とやらは死にかけてるわけだろ? これでその孫娘がとっくにくたばってると知りゃあ、死んでも死にきれんだろうさ」

「それは……」

「だったら孫娘は育ての親のところにいて、自分の援助で何不自由なく暮らしていると思った方がずっと幸せじゃないか」


 そう言われるとそういう気もしてくる。


 このご時世、幼い子が病やら不慮の事故やらで命を落とすことはそう珍しいことではない。この年まで立派に成長していると知れただけでも、その老人は安心するのではなかろうか。例え一目見ることこそ叶わなくとも、自分の援助によって幸せに暮らしているとわかれば、少しでもその罪悪感は薄れるのではなかろうか。


 そうは思うものの。


「で、でも……。だったらせめて小さい葛籠の方で良かったんじゃないか? あんな大きな葛籠にいっぱい、あれやこれや詰められても……」

「何言ってんだい! あれで小さい方を選ぶやつなんてただの阿呆だよ! どう考えたってでかい方をもらった方が得に決まってるじゃないか」

「そうかもしれないが。でも、そんな嘘ばかりつくのは心苦しいというか」


 そう言って、正平は雀の着物を抱いたまま、はぁ、とため息をついた。


 昔はその優しさや正直さに惹かれたものだった。

 けれど、共に暮らしてみると、そんな優しさやら正直さやらでは腹は膨れないし、贅沢も出来ないとわかる。清廉潔白では損をするだけだ。もっとずるく、さかしく生きなくては。


「だったら、その葛籠はあたしがもらいます。アンタはここで一人で暮らせば良い」

「東砂……?」

「明後日、葛籠を取りに来ます」

「そんな、お前……」

「その後もあの魅鳥とかいう女が葛籠を持ってきたら、回収しにきますから。良いでしょ? だってアンタはいらないんだから」

「それは……そうだけど」

「はい、だったら決まりね。とりあえず当面の生活費くらいは残してあげるからさ」


 それじゃあね、とあっさり言い放って、さっさと身仕度を済ませると、東砂は家を出て行った。


 正平は、狐につままれたような心地で呆然としていた。


 あの優しい妻はどこに行ってしまったのだ。

 なぜ急に出て行くという話になるのだ。

 雀がいなくなって、これからは夫婦二人で励まし合って生きていくのではなかったのだろうか。


 いまのは本当に妻だったのだろうか。

 狐狸の類ではなかろうか。


 正平はその場にぺたんと尻もちをついて、ただただ雀の着物を握りしめていた。


 

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