大きな葛籠と小さな葛籠

大きな嘘①

 粗末な家の小さな囲炉裏の前で、正平しょうへいは着物を握りしめていた。

 仕事には、ここ数日行っていない。

 このままではくびになるだろうと思う。いや、もうなっているのかもしれない。


 わかっていても、働く気にはなれなかった。


 雀がいなくなってしまったのである。

 勤め先に大量の注文が入り、数日泊まり込みで働いていた時のことだった。


 妻の東砂あずさが言うには、二人で出掛けていた時に野盗に襲われたのだそうだ。手を取って命からがら逃げたが、その途中で雀が足を滑らせて谷へ落ちたのだという。なぜそんなところに行ったのだと問うと、一家の大黒柱であるお前さんに滋養のあるものを食わせてやりたかったからだとおいおい泣く。何でも雪の下に生える野草があるらしく、雀がその場所を案内してくれると言っていたのだとか。


 さすがにあの高さから落ちたのでは助からない。どうにか探し出して連れて帰ろうとは思ったが、雪も深くて危険だし、第一、見つけたとて女の力では無理だ。


 だから、涙を呑んで置いてきた、と。


 それを責めることは出来なかった。

 男の自分ならまだしも、か弱い妻にそんなことが出来ようか。


 そうは思っても、この目で亡骸を見たわけでもなく、あきらめがつかないのもまた事実だった。夕飯時になれば、もしやひょっこり帰って来るのではあるまいか、などと考えると居ても立っても居られなかった。仕事になど行っている場合ではない。雀はきっと凍えて帰って来るだろうから、冷えた身体をぎゅうと抱いて、温かい粥を食わしてやらねばならぬ。


 そんな亭主の姿に、東砂は、最初こそ何も言わなかったが、それが数日続くともなると次第に不満を露にするようになった。


「お前さん、気持ちはわかるけど、雀はもう戻ってきやしないよ」


 優しくそう諭し、何とか働きに出てもらおうとするが、彼は頑として首を縦には振らないのである。


 このままでは彼に金を渡せない。

 それどころか、会いにも行けないではないか。


 悲しみに沈む振りをするのも正直面倒になってきた。第一、そんな演技をしていても、飯を炊いたり、洗濯をしなければならないのだ。金を運んでこない亭主になぜこうも尽くしてやらねばならぬのかと、東砂はぎぃぃと歯噛みした。


 と。


 とんとん、と戸を叩く音がした。


 まさか本当に雀が戻って来たのではあるまいな、と東砂はぎくりと肩を震わせた。いや、よしんば戻ってきたとして、だ。切り落とすことこそ叶わなかったものの、舌をあれだけ傷つけてやったのだ、しゃべることなど出来まい。筆談で伝えようにも、あいつは字を知らないのだ。


 大丈夫、大丈夫、と言い聞かせて腰を浮かせると、「俺が出る」とその肩を押さえたのは正平である。うわ言のように雀、雀、とくり返しながら、ふらふらと吸い寄せられるように戸口へと向かった。


 が、開かれた戸の向こうにいたのは、きれいな身なりをした女性である。年の頃は三十――といったところだろうか。


「あ、ええと、家に何用で……」


 上等な着物に、これまた高級たかそうな防寒具を着込んだその女は、見た目の割に若い声で、「御礼を」と言った。


 はて、礼とはなんぞ、と振り返って東砂と視線を合わせるが、彼女の方にも覚えはないようで、首を振っている。人違いをしているにしても、とりあえずは中へ、と促すと女はちらりと背後を気にして、「では、こちらもよろしいでしょうか」とその後ろに置いてあった大きな葛籠を顎でしゃくってみせた。


「はぁ……」


 そんな細腕でここまで一体どうやって運んできたのやら、彼女の腰の高さまであるそれを「では私が運びましょう」と持ち上げてみると、その大きさの割には拍子抜けするほど軽い。それが礼の品なのだろうかと東砂は目を輝かせたが、正平の方では、そもそも心当たりなどないのだし、恐らくは人違いだろうと思いつつ、女と葛籠を中に入れ、茶を勧めた。


 それを一口飲んで、女は、ほぅ、と息を吐くと、その場に手をついた。


「わたくしは、北藤原きたとうばらにあるお屋敷の遣いの者にございます」

「はぁ」


 北藤原は東地蔵と並ぶ商いの町で、規模は東地蔵よりも小さいものの、華やかさ、豊かさにかけては決して引けを取らないところである。そこの屋敷の遣いが、一体なぜ、と正平は首を傾げた。


「数年前、こちらに女の赤子が捨てられておりませんでしたか」

「え、ええ、まぁ」

「その赤子を世話をしていてくださったとか」

「そ、そうですが……。もしかして――」


 ふるふる、と正平の手が震える。

 かたかた、と東砂の肩が震える。



 後は二人が想像した通りであった。

 その遣いの女――彼女は魅鳥みどりと名乗った――が語ったところによると、雀はそこのお屋敷の末娘の子であるらしい。


 なぜ生まれたばかりの我が子を手放したかについてだが、当時末娘は未婚で、恋人がいるかどうかすらも家人は誰も知らなかった。腹が膨らんできたことで発覚したのだが、何度問い詰めても末娘は相手が誰であるか口を割らなかった。けれど、そこまで頑なであるからには、それなりの理由があるに違いない。誰もがそう思った。


 そしてその家は既に長男の息子が跡取りの候補に上がっていた。そのすぐ下には姉もいて婿をとっており、そこにも男児が二人ほど生まれている。


 つまり、どんな馬の骨ともしれぬ男の子など、不要であったのだ。それでもまだ生まれたのが男なら、違ったかもしれない。けれど生まれたのは女である。こうなると、本格的にお荷物だ。仏心を出して育て、ある日ひょっこり父親が名乗り出てきても厄介である。


 末娘は当然のように抵抗したが、ならば父親が誰なのか言えと詰め寄ると、口ごもる。よほど隠さねばならぬ相手らしい。


 結局、最終的に末娘は折れ、近くの寺に預けるということで話はついたのだという。


 魅鳥は、詳しくは話せませんが、などと言いながら、ぺらぺらと話した。これだけ話しておいて何をいまさらと思ったが、元々話好きなのかもしれないし、こちらの同情を引く目的なのかもしれない。


 兎にも角にもそういった経緯で雀――偶然にも本当の名は『鈴』というのだという――は捨てられたのだ、と。


 寺に預けるはずだった鈴がなぜこの家の前に捨てられていたのかについては魅鳥にもわからないようで、もしかしたら言いつけられた下男か下女が寺まで行くのを面倒がったのかもしれません、と彼女は締めた。


「雀は……鈴という名前なのですね」

「そうです」

「何という偶然か……」

「ええ」


 正平はぽつりと「すず」と言って、先刻からずっと握っていた彼女の粗末な着物をぎゅう、と抱いた。東砂は、それを見てまた苛立っていた。


 あんな小娘の名前などどうでも良い。そんなことよりも、この女は何だ。何をしに来た。


 育ててくれた恩を、というのなら願ってもない話だが、肝心の雀、いや、鈴はいないのだ。連れて帰るから呼んで来いなどと言われても困る。


 そして案の定、魅鳥は言った。


「現在大旦那様は病に倒れ、明日をも知れぬ命でございます。そして、いまになって、鈴様のことを大層悔いておられます。酷いことをした、何もしてやれなかった、と」


 そこで、と魅鳥は、よよ、と涙を滲ませた。


「いまからでも屋敷に呼び寄せて、贅沢な暮らしをさせてやりたいと、そう申しているのです。まことに勝手ではございますが、どうか、鈴様をこちらで引き取らせていただけないでしょうか」


 そう言って両手をつき、深く頭を下げた。


 引き取らせても何も、鈴はいないのだ。

 そう思った正平は、けれどどう説明したものかと声を詰まらせた。ただ、おもてを上げてください、と両手を宙に泳がせておろおろと半端に腰を浮かせるのみである。


 すると、


「いまさら何をおっしゃいます。雀は私達の子です。絶対にそちらへは渡しません!」


 東砂が立ち上がってそう声を上げた。


 それを聞いて――、


 いまだ床に突っ伏したままの魅鳥――青衣は、にや、と口元を緩ませた。

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