舌切雀②
出遅れた。
このわっちとしたことが。
確かに表向きは薬師であるのだから、仕方がなかったかもしれない。けれども、急を要したのは最初の妊婦だけだった。その他の爺婆共はいつもの暇つぶしのようなものだった。あんなに丁寧に説教くれてやることもなかったはずだろう。
お幸にはあくまでも「ちょいと迎えにでも行ってやるかねェ」などと軽い調子で言って、通りを出るまでは特に急ぎもしなかった。ただただ背中に嫌な汗をかきながら、急く心を押し止め、いつものようにしゃなりしゃなりと品よく歩いた。
だけど、通りを抜けてからは、着物の裾がめくれ上がるのも、髪が乱れるのも気にせずに走った。
あの犬っころには負けるけどね。
わっちだって足には多少覚えがあるんだ。
何せ、身の軽さは隊で一番だったんだ。
頭には最後まで勝てなかったけどさ。
そんなことを思い出しながら、走った。
住まいは鴨原中だから、そっちに向かえば良い。
きっとその辺で道草でも食っているのだ。
だから遅くなっているだけなのだ。
それは願望だった。
こんな一面の雪っ原で、食える草なんざあるはずがないことくらいわかっていた。だけどほら、わからないじゃァないか。雪なら雪で、だるまを作るなり、兎を作るなり、
雀だってまだまだ童なんだから、きっとそうだ。
たまにはあの子だって年相応に遊びたいだろうしねェ。
そうだろう?
そういうことだろう?
そう願った。
数刻前の雀と彼女の養母のやりとりを、青衣はもちろん聞いていた。
二日ほどここをあけるとは言ったが、もちろんそこまでかかる仕事とは思っていなかった。実際、案外すんなりと必要な情報は集まってしまったため、さっさと扇子屋に戻り、天井裏に潜んでいたのである。
尻尾を出すのではないかと思ったからだ。
つまり、雀がいよいよ盗みを働くのではないか、と。
さすがに例の鍬や薬を盗られるのはまずいが、もしも着物や髪飾りに手を付けたら――、それはそれでくれてやるつもりだった。手切れ金の代わり、として。
けれど、待てど暮らせど、雀はじっと動かずにひたすら手本をなぞっていた。途中お幸が茶と菓子を持ってきて、二人で仲良く談笑しているところに「ばあさん、ワシにも」と弥一が混ざって来た。弥一さんは隙あらばすぐにああやって店を抜けるんだから、とため息混じりに尚も様子を伺っていると――、
やって来たのは上等な着物を着た女だった。薬を売ってほしい、という。けれども当然、薬師はいない。厳密にはこの天井裏にいるわけだが、はいいらっしゃい、と参上するわけにはいかないのである。
可哀相だけど諦めてもらうしかないか、と思っていると。
女は尚も食い下がった。
「ここなら良い薬が手に入るのだと人づてに聞いて、山を二つも越えて来たのです」と。
人の良いお幸はそれをまるっと信じて、「それは大変」と座敷にあげた。
おいおいお幸さん、どこからどう見たって山を二つも越えられるような恰好じゃァないだろゥ?
と苦笑するが、
まぁ、自分が見張っているのだから、厄介なことにはなるまい。
そう思い直す。
それに雀が患者にどう対応するのかも気になるところではある。言いつけ通り、薬に触れたりはしないだろうか、と。
普段は師の陰に隠れている弟子が、師が不在となると、急に態度を変えたりすることもある。それは雀だって例外ではないかもしれない。急にいっぱしの薬師の顔になって適当な薬でも渡されれば大変である。
その時はいま戻ったふりをして、素知らぬ顔でのこのこと現れれば良い。
そんなことを考えて見守っていると。
「ちょっと今回は時間をかけすぎなんじゃないのかい」
雀が口を開く前に、女が動いた。
「誰が飯食わせてやってると思ってるんだ。ええ?」
「アンタが盗んでこないとウチには金がないんだよ」
「アンタの大好きな父様の稼ぎじゃね、とてもじゃないがやっていけないんだ。わかってんのかい」
ほう。
こいつか。
成る程、成る程、と小さく頷いて、青衣は天井から、雀が虐げられているのを見た。正直なところ、その脳天に懐に忍ばせている
わっちは、殺さない。
ただ、得た情報は時として、刃以上の力を持つ。耳を掠めるそよ風のような微かな噂一つが、群衆を動かすことだってある。だから。
わっちは、殺さないけどね。
だけど――、
「雀は、どうだろうか」
埃っぽい天井裏で、ぽつりとそう呟く。
積もり積もったものが、いつか爆発するかもしれない。
そんなことを考えながら、その後も、青衣はじっと二人のやりとりを見下ろしていた。
養母が薬の棚に手を伸ばすのを雀が阻止したことも、
青衣を小馬鹿にされるのに耐えきれず、声を上げたことも。
きっと相当な勇気だっただろう、小さな手をぎゅっと固く握って肩を震わせて。思わず、ほう、と息を吐いて、やるじゃないか、と緩む口元を押さえる。
さて、そろそろさすがに可哀相だ。
音を立てずに移動し、秘密の抜け口から外へ出る。さっと身なりを整えて、こほん、と咳払いをすると、わざと大きな音を立てて荷物を置き、「弥一さん、お幸さん、ただいま戻ったよゥ」と声を上げたのだった。
だから心配だったのは、あの養母が雀に何かをするというよりは、その逆だった。まさかあの雀が、とは思ったが、普段大人しい者ほど我慢が限界を超えた時にとんでもない行動を起こすことがある。もちろん、そこまで揉めていたわけではないが、何がきっかけになるかなんてわからないものだ。
軽はずみに「雀はどうだろう」などと呟いてしまったことすら悔やまれる。言葉は力だ。ほんの些細な囁きですら、それが火種となって大火事を引き起こすことだってある。その恐ろしさを自分はよくよく知っているはずなのに。
なぜ口に出してしまった。
誰にも聞こえぬほどの囁きだからと、なぜ口にした。これが術にならぬとどうして言える。
わっちは、殺さない。
だから、雀も殺しちゃァならない。
まっさらな雪原の中で目に飛び込んできたのは、やはり血だまりのような赤い半纏である。それはあの時に着ていたものよりもずっと良い物ではあったが、まだらに雪をかぶっていた。その血飛沫のような赤の中に雀はいた。横向きの姿勢で、口から血を流して。
「雀!」
あの時のように、死人のような顔色で、身体はすっかり冷え切っていたが、口から零れる血にはまだ微かに生の温みがある。そこに賭けるしかなかった。出血の箇所を確かめようと口を開けると――、
ざっくりと。
舌が。
鋭利な刃物でやられたのだろう、真ん中あたりから、ざっくりと横に一文字。わずか一寸ほどで辛うじて繋がっている、という状態である。
誰が、などと考えるまでもない。あの女だ。
いますぐにでも同じ目に遭わせてやりたかったが、まずは雀の処置が先である。
「雀、死ぬんじゃァないよ」
そう声をかけ、手持ちの針と糸で縫合し止血すると、揺らさないようにと用心しながら、青衣は扇子屋へと急いだ。
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