鴨原中の盗人③
「……ね、姉さんを馬鹿にしないでください」
怒りでか、それとも恐怖でか、かたかたと震えながら発せられた声に、養母は「あぁん?」と気の抜けた返事をした。
「何か言ったかい、
『雀』という名は、養父がつけたものだった。ちゅんちゅんと可愛らしく鳴いて元気よく飛び回る、愛らしい小鳥。彼の中で、その名にそれ以上の意味はなかった。確かに稲を食い荒らす害鳥ではあるのだろうが、雀達にしてみれば、ご馳走が目の前にあるのだ。食わぬ理由はない。
養父は、その愛らしい小鳥の名をつけた雀のことも大切に思っていた。仕事が忙しくなかなか構ってやれないが、早く上がれた日などは、妻には内緒でこっそり飴を買って帰ったりもしたものである。
そんな彼がつけてくれた名を、この養母は『
「私は馬鹿でも阿呆でも、何でも良いです。屑女でも良いんです。だけど、姉さんのことだけは馬鹿にしないでください」
「はぁ? 馬鹿に馬鹿って言って何が悪いんだい。そうだろ? 人の病はどうにか出来ても、人を見る目はないんだからさ」
もしかして、薬師の方もやぶなんじゃないのかい、とせせら笑う。
「薬が駄目ならほら、着物でも髪留めでも何でも良いから。薬師の割にゃ随分派手な趣味してるみたいだし」
へぇ、これも中々、などと勝手に引き出しを開けて物色し始めた養母の手を掴む。
「やめてください」
「うるさいねぇ。アンタはさっきの婆が入ってこないように見張ってりゃ良いんだよ」
そう言って雀を突き飛ばすと、がさがさと乱暴に中のものをひっつかみ、懐へ入れる。
「やめてください。そんなことをしたら、もうここには」
「もうここにはいられなくなるって? 良いじゃないか、また新しい鴨を見つけりゃ良いんだから。姉妹ごっこがしたいんなら、別の姉さんを探しな」
と。
どたどた、と何やら大きな音が聞こえて養母は手を止めた。雀もぎくりと肩を震わせて息を飲む。
「弥一さん、お幸さん、ただいま戻ったよゥ」
「あら青衣ちゃん早かったのねぇ。でもちょうど良かった。お客さんが来てるんだよ。薬が欲しいって」
「へェ、そうかい。それじゃあここで立ち話してる場合じゃァないねェ」
そう言って、青衣はいそいそと履物を脱ぐ。
荷物を下ろして、いざ、と戸に手をかけると、お幸はその背中に向かって、それがねぇ、などと話し始めた。
「何でも遠いところから来たみたいでねぇ。何だか顔色も悪くって。年はそうだねぇ……まぁ、四十ってところかねぇ。もしかしたら月のものかもしれないしさ。とりあえず雀ちゃんにお布団を敷いてもらって、横にならせてるんだけど……良かったかねぇ。あたしが薬のことをちゃんと覚えてたら良かったんだけど」
立ち話をしている場合じゃない、と言ったばかりだというのに、聞いていなかったのか、お幸はそんなことをぺらぺらと語って、「本当に用の足りない婆で申し訳ないわぁ」と頭を下げる。
「良いんだよゥお幸さん。それにね、うろ覚えで薬を渡された方が厄介なんだから、追い返さなかっただけでも賢明さ。布団に寝かせてやったんだろゥ? 上出来じゃァないか。いつも助かっているよゥ」
そう優しい声をかけてやれば、お幸は、とんでもない、と大袈裟に手を振った。
「さ、そろそろ患者さんのところに行ってやらんと」
再度にこりと笑って、その笑みを貼り付けたまま、戸の方に身体を向けた。
「雀、開けるよゥ」
具合はどんなもんだい、と戸を開けると、雀は部屋の真ん中あたりに敷かれた布団の脇にちょこんと正座をしていた。布団には、確かに少々顔色の悪い女が目を瞑って横たわっている。
「はい、ええと、良くお休みになられています」
「そうか。問診はしたかい?」
「いえ、そこまでは」
「何、簡単な質問程度でも良いんだけどねェ。例えば、どこから来たとか、年はいくつだとか、どこが痛むとか。それから――」
後ろ手で、とん、と戸を閉める。
すささ、と畳を滑るようにして移動し、眠っている女の枕元に座って、その顔を覗き込んだ。
「ここへ何しに来たのか、だとかねェ」
何をしに来たも何も、ここは確かに扇子屋ではあるけれども、この町のものならば皆、ここに
けれど青衣は、そう言った。
「ここへ何しに来たのか」と。
その言葉にぎくりとしたのは雀だけではなかった。狸寝入りをしているその養母の方でも、布団の中でじっとりと嫌な汗をかいている。
「あの、申し訳ありません。どこから来たのか、は聞いておりませんでした。ただ、その、年は、四十くらいだった、と……」
「成る程ねェ」
「ああ、でも、遠いところから歩いてきなさったということで、だいぶお疲れのご様子で……」
「ふゥん」
「それで、ここへは、その、薬を……」
「だろうねェ」
よっぽど遠いところから来たのかねェ、熱でもあるのかねェ、こォんなに額に汗を浮かべて、と愉快そうに笑いながら、指でその汗を掬い取ると、さも、いま目が覚めました、といった体で、彼女は目を開けた。
「おや、起こしちまったかい? 悪いねェ」
「い、いいえ」
「それで? 何の薬が欲しいんだい?」
女に薬を処方し、代金を受け取ると、お幸が「雀ちゃん、通りの向こうまで送っておあげよ」と割り込んできた。これは珍しいことでもなく、いつものことであった。
女は何もそこまで、と表情を曇らせたが、「何、家までついてくわけでもなし、遠慮しないで。雀ちゃんは小さいけど、これで結構しっかりした子なんですよ。ねぇ、青衣ちゃん。立派な薬師になるんだ、っていま一生懸命勉強していてねぇ」と、誇らしげに話す様はまるで実の祖母のようである。
にこにこと笑って、お幸は雀の艶のある髪を撫でる。ここへ通うようになってから、少しは小綺麗にしてもらわないとわっちが恥をかくんだ、と言って青衣が定期的に香油を塗ってやっているから、彼女の髪は年相応の輝きを取り戻していた。
「それでは遠慮なく」
と女は軽く頭を下げた。不安そうな顔をした雀が彼女の手を引いて通りに出る。
青衣はそれを黙って見送っていた。
途中、一度だけ雀は振り返った。そして店の前にまだ青衣が立っているのを目に留めて、何か言いたげな顔をした後、微かに頭を下げた。
その表情が、「ごめんなさい」のようにも、「助けて」のようにも見えてしまったら、黙っていられるはずもない。
けれど、
「すみません、こちらに薬師様がおられると――」
と、これまた顔色の悪い妊婦が亭主に連れられてやって来て、店先でああだこうだとやっていたのが悪かったのだろう、青衣が戻って来ていることに気が付いた馴染みの爺と婆が「薬が切れたからまた調合してほしい」だの「この間の薬はいまいち効きが悪い」などと言いながら押し寄せてきたのである。元気の良さそうな爺と婆はまだしも、その妊婦を放っておくわけにはいかない。
そう思って妊婦の話を聞いて薬を出してやると、「次はワシだ」とそのどこも悪そうには見えない爺と婆がぎゃあぎゃあと喚き出す。そして、それにつられてなのか、わらわらと老人達が集まって来た。
一人を相手すれば、その隣にいる者の話を聞かないわけにはいかず、結局、青衣がすべての患者を捌いたのは雀が女を送りに行ってから一刻後のことであった。
あの薬は長期間飲んだ方が身体に毒だ、あれ以上強い薬はもうない、アンタはまず酒は控えろ、大人しくしてりゃ博打を打っても良いと誰が言った、まだ硬い飯は食うんじゃないって言っただろ、などと、器用にくるくると回りながら雨後の筍のように湧いてくる患者共を片っ端からやっつけて、ふぅ、と一息ついていると、お疲れ様、とお幸が茶を片手にやって来て、きょろきょろと店の外を見回してから言うのである。
「雀ちゃん、遅いわねぇ」と。
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