青衣の過去③

「全く、久しぶりに嫌ァな夢を見たもんだ」


 そんな愚痴を零しつつ、誰にも教えていない薬草の穴場を歩く。すっかり雪の下になってしまっているが、この時期にしか採れない貴重な薬草があるのだ。


 はぁ、と白い息を吐いて両手を擦り合わせ、ちら、と背負いかごに目をやる。まずまずの収穫である。これだけあれば一冬分は持ちそうだ。


 さて、戻るか、と馴染みの風景をぐるりと堪能していると。


 ふと、見慣れぬものを目に留めた。


 雪原の中にぽとりと落とされた、赤い色。赤といっても鮮やかな赤ではない、もっと――血のようなどす黒い赤だった。


 血だまりのようじゃないか。

 まるで、あの人の。


 夢で見た嫌な思い出と重なり、ふるふるとかぶりを振る。


 けれどもふらふらと誘われるようにして近付いてみれば、その赤はただの半纏の色であったし、雪で濡れて変色しているだけである。


 だから、半纏だけならば、なァんだ、と無視するところだったのだ。


 けれど、その半纏の中に少女がいるとなれば話は別である。腰を落とし、青白い頬に触れてみれば、それは既に冷たくなっていた。可哀想だが死んでいるなら鳥の餌にでもなるしかない。それが自然の摂理というやつだ、と手を合わせてから立ち上がろうとすると。


 ――ほぅ。


 と微かに呼吸が聞こえた。


 半纏の中に少女がいるとなれば話は別だし、それが生きているとなれば――、


「あァもう、仕ッ方ないねェ!」


 背負いかごを前に、そしてカチカチに冷えた娘を後ろに背負って、青衣は、ぐぎぎぎ、と歯を食いしばりながら来た道を戻った。



 青衣が幼い少女を担いで帰ると、扇子屋の老夫婦は腰を抜かさんばかりに驚いた。

 薬師の青衣がここを間借りしている以上、死にかけの病人がここに担ぎ込まれて来ることなど、一度や二度ではないし、何なら既に仏になっていることもあった。だから老夫婦が驚いたのはその凍死寸前の少女に対してではない。


「青衣ちゃん、アンタ見かけによらず力持ちだったんだねぇ」

「まぁまぁそんなに髪振り乱して、あらぁ、お化粧も汗で流れてるじゃないの」


 普段はそのきれいな顔に汗一つ浮かべないような細腕の美女が、汗みずくになって前と後ろに大荷物を抱えて帰って来たことである。


「そんなに驚くこたァないだろゥ? わっちだってねェ火事場にゃァ馬鹿力を出すってなもんさ」


 老店主――弥一やいちの淹れた茶で一息ついた青衣は、彼の妻のおさちから渡された手拭いで額の汗を押さえた。


「それで? このお嬢ちゃんは?」

「薬草採りの帰りに拾ったんだよゥ。死んでたら鳥にでもくれてやるつもりだったんだけどさ。生きてるってェ気付いちまったら、まさか無視も出来ないだろゥ?」


 そりゃそうだ、と弥一が大きく頷く。お幸は「この子、助かるかしら」と眉を下げている。


「まァ、助かると思うけどねェ」


 ちら、と少女を見る。

 濡れた着物を脱がせて乾いた寝間着に替えてやり、部屋を暖め、滋養剤も口に少し含ませてやった。ごく軽い凍傷以外の外傷も見当たらないため――最も持病の類があれば別だが――あとは彼女自身の力に委ねるしかない。


 ただ、と青衣は思う。


 果たして、助かることがこの子の幸せなのだろうか、と。


 この季節に薄っぺらい半纏一枚で、あんな場所にいたのである。家出するにしてももう少しまともな恰好で出るだろうし、あそこは遣いに行くような場所でもない。


 親に捨てられたか、死に場所を探して彷徨っていたか。

 あの時の、自分のように。


 いっそあそこで死なせてやった方が良かったのではなかろうか。


「とりあえず、この子が目を覚ますまで見てるから、弥一さんとお幸さんは店にお戻りよ」

「そうだね。そうさせてもらうかな」

「何か必要なものがあったら言ってちょうだいね」

「悪いねェ」


 気の良い老夫婦を店に戻し、少女を気にかけながら、数日前に摘んで乾燥させておいた薬草をごりごりと磨り潰す。少々うるさいかもしれないが、それで目を覚ますなら、それで良い。


 死人のような顔色はすっかり生きた人間のそれに変わっていて、形の良い唇にうっすら赤みが差すと、なかなかに可愛らしい顔立ちをした娘である。


 もしこの子が親に捨てられたのだとして。


 それでは今後、どのようにして生きていくのかと考えると、行きつく先は――……、


 ふるふる、と頭を振る。


 いいや、違う。

 親に捨てられた子が、皆自分のような人生を送ると決まったわけではない。どこか近くの寺に預けても良いのだし、住み込みで働けるところもある。とはいえ、その職場ももちろん完全に安全な場所とは言えないわけだが。けれども、石蕗屋あそこなら。


 そうだ。

 あそこなら彼らもいるし。


 などと考えていたところで、うぅ、と小さな呻き声が聞こえた。声の方を見ると、気が付いたらしい少女がきょろきょろと辺りを見回しながら身体を起こそうとしている。


「もう少し寝てな」


 手を伸ばせば届く距離にいたが、あえてその場から動かず、目も合わせずにそう言った。ごりごりと薬研やげんを動かしながら、「わっちは薬師だ。もう心配はいらないよ」と患者に向かって言うお決まりの台詞を口にする。


 そう言うと、大抵の患者は安心するのだ。

 稀に、安堵のあまりに気が抜けて事切れてしまう重病人や高齢者もいるが。


 だけど、彼女の場合はどうなのだろうか、と青衣は思った。

 いま生きていることこそがその『心配』の種になりやしないだろうか、と。


「あの、ありがとう……ございました」


 とりあえず、礼の言葉が聞こえてきたことに少しだけホッとした。


 いつだったか自殺を図ったという青年を助けた時(もちろん青衣が自発的に助けたというよりは、彼の両親が見つけて担ぎ込んで来たのだが)は、その彼から偉い剣幕で怒られたものである。


 だから、一応は、感謝してくれているらしいことに胸を撫で下ろす。


 お幸が作った粥を食べさせてやると、少女は少しむせながらもきれいに完食した。


「それで? まずは名前でも聞いておこうかねェ」


 優しい声でそう尋ねると、少女は言い難そうに、ぽつりと「雀です」と名乗った。


「雀? あのちゅんちゅん鳴く雀かえ?」

「はい。あの、そう呼ばれています」

「ふゥん」


 、というのが気になる。


「呼ばれてる、ってェのはどういう意味だい?」

「あの、えぇと、その」

「まァ、言いたくないなら、無理にとは言わんけどさ」

「いえ、そういうわけではなくて」


 そこで、雀は、布団の端をきゅ、と握った。そして、わからないんです、とぽつりと呟く。


「わからない?」

「はい。私は、その、捨てられていたそうで。布に包まれて、竹かごに入れられて」


 

 雀が育ての親から聞かされた話によればこうだ。


 それは数年前、雪のちらつく夕暮れ時だったのだそうだ。

 かたかたと戸板を鳴らす風の音に混ざって、微かに赤子の声が聞こえたのだという。

 近所に身重の女はいなかったはずだが、と訝しんで戸を開けてみると、そこにいたのは、竹かごの中に押し込められた赤子である。凍えないように、ということだろうか、手拭いやら端切れやらで幾重にも巻かれていて、その身体より一回りは大きいはずの竹かごは隙間なく詰め込まれた様々な布ではち切れんばかりになっていた。

 

 それがあまりに窮屈そうに見えたのと、家の中にいるのだから、と少し緩めてやろうと思い、何枚か剥いでいくと、紙が一枚挟まっていることに気付いた。


「そこに、名前が書いてあったのだそうです」

「へェ。なんて?」

「それが――」


 赤子というのはもともと体温が高いものである。

 確かに気温は低かったのだろうが、それにしても布を巻きすぎたのだろう。それは汗でぐっしょりと湿っており、とても読める状態にはなかった。


「ですから、本当の名前はあるのでしょうが、わからなくて」

「成る程ねェ。それで『雀』とつけられたってェわけかい」

「はい」


 見たところ、少々痩せすぎではあるものの、かといって極端に栄養状態が悪そうには見えない。飯はまぁそこそこに食わせてもらっているのだろう。


 けれども、可愛がられている、とは思えなかった。

 おどおどとこちらの顔色を伺うような、上目遣いに盗み見るようなその目は、恐らくもう習慣化されていると思われたからである。


 それにその『雀』という名も少々引っ掛かるところではある。

 確かにあれは傍から見る分にはなかなかに可愛いものだが、農家にとっては稲を食い荒らす害鳥でもある。見た目の可愛さからそう名付けたか、それとも、家族を食い荒らす外の者、という意味か。

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