青衣の過去②
青衣が忍びの道に入ったのは、成り行きといえば成り行きだ。
毒を飲んだあの日。
毒でも死ねないとわかった青衣は、とにかくその城から逃げ出した。このままそこにいれば、またどんな目に合うかわからない。処された奴らの部下なり身内なりが報復してくることも考えられた。
死ぬ時は自分で選びたい。
誰かに奪われるなどもうまっぴらだ。
その一心で逃げた。
飲まず食わずで必死に逃げて、そうして青衣はぱたりと倒れた。人は飲まず食わずでは生きられないことなど、知らないわけではなかったというのに、その時は必死だったからだろう、飢えも乾きも感じなかったのだ。身体からの悲鳴も聞こえぬままに走りに走って、ついに限界を迎えたのである。
自分はここでくたばるのか。
しかし他者から奪われるわけではない。ならばそれでも良いか、と目を閉じた時、大きな手に抱きかかえられた。
畜生。
最期の最期で。
どうにか抵抗しようと試みたが、既に指の一本も動かせなくなっていた。
せめて歯を立てて、食いちぎってやろうと身構えていると、差し込まれたのは柔らかい粥を掬った木匙である。
木匙はそれからも、何度も口に差し込まれた。薄っすらと塩の味がするその粥は、空っぽの腑によく滲みた。
汚れた着物を脱がされた時は、もう諦めの境地だった。けれども飯も食わせてもらったし、この男ならまぁ良いやと投げやりになっていると、肋骨の浮いた肌に当てられたのは男の唇などではなく、固く絞った手拭いだった。
清拭が終わると、男のものではあったが、きれいに洗われた着物を着せられて、布団に寝かされた。
正直、何が何やらわからなかった。
その後も男は青衣が回復するまで粥を食わせ、身体を拭いてくれた。しばらくして動けるようになり、手をついて礼をすると、男は言った。
「人は助け合うものだ」
ただその一言だった。
それから青衣はそこに住むようになった。
男は農夫で――農夫といっても、広大な田畑を持っているわけではなく、自分が食う分と、もしもの時に備える分くらいの収穫しかないくらいの小さなものしかなかったが。それを見様見真似で手伝いながら日々を過ごした。
肉体労働に明け暮れても、青衣の身体は逞しくはならなかった。そのうちにやはり男は青衣の身体を求めるようになり、自分はきっとこの男の慰み用に拾われたのだろうと思いつつも、黙ってそれに応じるようになった。
男に妻はなかった。
その理由は後にわかる。
男は忍びの者だった。
いわゆる半忍半農というやつで、普段は農夫として周囲の目を欺きながら忍びの依頼を受けていたのである。ならば妻を娶るのも容易ではない。子を持つなど以ての外である。
だから、いくら抱いても孕まぬ青衣は、欲の処理には都合が良かったのかもしれない。
元々そのつもりで拾ったのか、それとも共に暮らすうちにそういう気持ちを抱いたのかはわからない。怖くて聞けなかったのだ。
いずれにしても、ここにいれば、これ以上は奪われない。この男との行為は嫌じゃない。そう言い聞かせた。青衣はその時十四になっていた。
男が忍びだと打ち明けて来たのは、かなり危険な戦場の依頼が来た時のことだった。いままで町へ野菜を売りに行くなどと見え透いた嘘を並べて出掛けていたが、さすがに何月も家を空けるとなれば隠せないと思ったのだろう。
男にとって青衣は既に妻のような存在になっていたこともあり、彼は青衣をいつもより激しく抱いた後、ぽつりとそう打ち明けたのだった。
男の腕の中でまどろみながらそれを聞いた青衣は、言った。
「それならわたしもついて行く。お前さんのことは、誰にも奪わせるものか」と。
けれど結果として、青衣のせいで男は死んだ。
自分もついて行く、誰にも奪わせないなどと啖呵を切ったけれども、当然聞き入れてもらえるものではない。
戦場は、素人が、ましてや子どもが生半可な気持ちで足を踏み入れるものではないのだ。
男はそう言って説得した。
けれど、こっそりついて行った。
その結果、男の足を引っ張ることとなり、彼は青衣を庇って撃たれた。男は絶命するその瞬間、空を見つめてただ一言「愛している」と言ったが、果たしてそれは青衣に向けての言葉だったのか、それとも他者への言葉だったか。
閨ですらついぞ聞けなかった言葉である。
男は青衣を抱いている時も、いつも自分ではなく、その奥の誰かを見ているような気がしていたのだ。名前だって教えたはずなのに、「なぁ」だの「おい」だの「お前」だので、結局呼ばれたこともない。
だから青衣は、男が自分を拾った理由も、彼が自分のことをどう思っていたのかも、ついに知ることはなかった。知りたいようで、知りたくなかった。真実さえ知らないままならば、これ以上悲しむことはない。
男の骸に覆い被さって泣いている青衣を連れ去ったのは敵方の城に仕える忍びだった。
麻袋に押し込められて担ぎ上げられ、荷物のようにして運ばれている間、我が身にこれから降り掛かるであろう様々な辛苦を考えつく限り並べてみたけれど、男が死んでしまった以上、もうどんな地獄も変わらぬだろうと思った。
奪いたいなら好きなだけ奪えば良い。
だけど、命だけは易々とくれてやるものか。
死だけは自らで選び取って、それで、いよいよ我が命が尽きる時には、お前らを全員呪って死んでやる。
背格好だけならまだ十かそこらにしか見えない
「こいつは俺の下におく」
そう言って、新しい名を与え、その日から青衣を忍びとして育てたというわけである。
「アンタの寝首を掻くかもしれないのに、良いのか」
そんなことを言えば、
「出来るもんならやってみろ。小僧に
と笑われて終いだった。それがまた悔しくて、覚えたての暗器を使ってはお命頂戴、と奇襲をかけるも、すべて返り討ちである。
こいつだけはいつか絶対に殺してやる、とその一心だった。
忍びとなれば、この小さい身体は案外悪くないようで、また元々の筋が良かったこともあり、十七になる頃にはもう立派に一人でも任務をこなせるほどになっていた。けれど相変わらず組頭には傷一つつけられなかったが。
元服を迎えても、やはり青衣はどこかなよなよとした女人のような身体つきをしていた。足も速く、瞬発力こそ多少秀でているものの、同年代の男の中で腕力は最も弱かったため、諜報活動が主たる任務であった。
そのうちに、潜入する際にはその体格を活かして女の恰好をするようになった。殿様のところで覚えさせられた化粧や仕草、舞などが思わぬところで役に立ったわけである。
高い声、華奢な身体付きに、しなやかな所作。標的に青衣が男であるとバレることはなかった。もちろん青衣に欲情した者から襲われることもあったが、その頃にはそれを交わす術も身に着けていたし、彼は大抵組で行動していたから、本当に危ない時には相方が助けに来た。
そうして青衣が一人前の忍びとなった頃、仕えていた城が落ちた。忍び仲間の大半が命を落としたが、青衣も含めた生き残り組は、その後の生き方を探さねばならなくなった。
「お前ともこれでさらはだ」
何だかんだとこれまで世話を焼いてくれていた組頭はそう言った。
「最後に一勝負させてくれ」
青衣はそう申し出たが、やはり「お前には勝てんよ」の一言だった。勝てないことくらい、青衣にもわかっていた。ただもう色々なことに嫌気が差して、疲れ切っていた。一矢報いたい気持ちもなくはなかったが、それが駄目でも、まぁ良いや、と。自棄になっていたのかもしれない。
「お前は俺を殺せない。お前は殺しに向いてない」
「向く向かないじゃない。いざとなったらわたしだって人くらい殺せる」
「だったら、ほら」
と、使い込まれた
「突いてみろ」
とん、と自身の胸を指差す。城から支給される苦無は皆共通で、当然青衣も全く同じものを持っている。けれど、自分のものよりもそれはずしりと重い。一体何人の血を吸ってきたのだろう。
その重さに手が震える。
「ほら、しっかり握れ。力を込めろ。よく研いであるからな、お前の力でもイケるだろ」
挑発され、悔しさに歯噛みする。そんなことはわかってる。頭ではわかっているのだ。
だけれども、身体が動かない。
「お前は一番最初の任務で人を刺さなかったからな。最初に人を殺す感触を覚えさせないといけなかったんだ。皮膚を裂き、臓腑を破るのが当たり前になるように」
震えて使い物にならない青衣の手を、包むようにして握り、苦無を抜き取る。
「お前の言う通りだよ。向く向かないじゃない。最初の教育と、あとは環境だ。いざという時にその一歩を踏み出せるかどうかは」
だけど、と言って、組頭は掠めるようにして青衣の唇を奪った。
「お前には人を殺させたくなかった。これからも殺しは避けろ。殺しはお前の専門じゃない。お前はこれからもその容姿と言葉で人を惑わして、ずるく生きれば良い」
その言葉を残して、組頭は消えた。
もちろん煙のように――というわけではない。誰も追いつけないその足で、音も立てずに走り去ったのである。
彼のその後は誰も知らない。
そして青衣はというと、顔と名前を変えながら他の城を転々とするようになった。
そうしてやっといま、自分の顔と名前で生きている。
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