千鶴の布①

 千鶴は布を織っていた。

 鶴の姿になって、自らの羽をむしって――などということはなく。地蔵が用意してくれた糸を使って、ただ、ひたすらに織っていた。


 ほとほと、ほとほとと涙を零しながら。


「鶴は人とはつがいにはなれん。人は人と番うのがよろしい」


 あの夜、千鶴の前に現れた地蔵は、淡々とそう言った。だから、諦めろ、と。


 地蔵と約束したのなら、それは破るわけにはいかない。あれはただの石の塊などではないのだ。


 人の目は騙せても、地蔵様を欺くことなぞ出来るわけがなかったのだと、千鶴は大粒の涙と共にため息を吐き出した。


 ――とん。


 そうして、彼女の涙をも織り上げた布は完成した。きりりと冷えた冬の朝のような、真っ白な雪原の如き白い布である。


 せめて。

 せめてこれを白狼丸様に。


 さすがに着物を仕立てられるだけの長さはなく、せいぜい六尺分といったところだったから、適当なところで切って手巾にしてくれても良いし、いま時期ならば、腹に巻いても温かいだろう。


 叶うなら、腹に巻くでも、手巾やら懐紙代わりにするでも良いから、この布が襤褸ぼろ切れになるまで使ってもらいたい。もういっそのことふんどしでも良い。


 そんな思いを胸に、織り上げた布を渡しに行かねばと地蔵の作った部屋を飛び出したのは、夜半のことだった。部屋には小さな行灯以外の明かりはなく、窓もなかったために時間の感覚などとうに薄れていたのである。


 それも地蔵の力によるものなのか、店の手伝いをしていたはずの千鶴がここ数日全く姿を見せなくなっても、あの三人以外は話題にすら出さなかった。まるで最初から千鶴などいなかったかのように。


 いそいそと冷えた廊下を歩く。胸に織り上がったばかりの布を抱いて。


 白狼丸様は倉庫係の大部屋にいらっしゃるはず――、と廊下を急いでいると、従業員の寝所はまだずっと先だというのに、かすかに彼の声が聞こえてきて千鶴は足を止めた。彼の声の後に女の声まで届き、膝が震える。


「白狼丸、今日はまた性急すぎやしないか」

「そんなことねぇよ。おれがこの数日、どれだけお前に会いたかったか」


 お前は違うのか、と縋るようなその声は、自分に向けられるものよりもずっと甘い。微かな衣擦れや、密やかに呼吸を交わす音まで聞こえてくるようで、ぐぅ、と胸が締め付けられる。


 独り身とおっしゃっていたのに。


 この雰囲気は間違いなく恋仲以上の関係ではないか。あれだけ素敵なお方なのだから、言い寄る女が他にいてもおかしくはない。いつだったか、頬に見事な紅葉をこしらえてきたこともあり、てっきり嫉妬に狂って争い始めた女共の巻き添えでも食ったものかと思っていたから、女の一人二人は覚悟していたのだ。


 けれど、まさか彼の方から縋るような、そんな相手がいるとは。


 ぎり、と歯噛みをし、思い余ってその布を引き裂いてしまおうかと力を込めたところで、思いとどまる。


 そして千鶴はその場にべしゃりと崩れた。


 酷い、酷いとしくしく泣き出せば、さすがに部屋の中にもそれは届いたらしい、何だ何だとその戸は開かれた。暗い廊下に差し込む淡い灯りに千鶴が顔を上げれば、そこにいるのは、愛しい男である。


「うわっ、千鶴。お前こんなところで何してんだよ」

「白狼丸、どうし――、あぁ、千鶴じゃないか」


 彼の背後からひょこりと顔を出した茜がそう言うと、千鶴は、彼女を、ぎぃ、と睨みつけた。


「軽々しく名を呼ばないでください、私はあなたなぞ知りません」


 涙を乱暴に拭ってそう言うと、茜は、そうだった、と気まずそうに視線を泳がせた。けれども、冷たい床にぺたりと尻を付けている千鶴を放っておくわけにもいかない。


「ええと、まぁ、そう……なんだけど。とりあえず、そんなところで座ってないで、ほら、中に入れよ」


 冷えると良くないぞ、と茜が手を差し伸べたが、それは、ぱちん、と払われてしまう。


 優しい妻の手を払われたことに当然白狼丸はカチンと切れかけたが、それを察した茜が、良いから、と囁く。確かにわからないでもない。本命の女に情けをかけられるなど、腸が煮えくり返る思いだろう。


 茜は、白狼丸に目配せをしてから、ぼろぼろと涙を零している千鶴の前に座った。何だ、と警戒するように、胸の中の白布をぎゅうと抱く。


「あのな、千鶴。他の何をやっても良い。欲しいなら、俺の角でも何でもくれてやる。だけれども、白狼丸だけは譲るわけにはいかない。だから、諦めてくれ」


 茜の口から毅然と吐き出された言葉に、どきりとする。


 鬼にとって角というものがどれだけ重要な部位なのかはわからない。だけれども、鬼ヶ島で会った鬼の子は、「角がなくなったら鬼でいられなくなる」と言ったのだ。だったらそれはそれで好都合のような気がしないでもないが、恐らくそういうことでもないのだろう。矜持の問題、というやつである。

 

 あんな小さな子でも必死に守るそれを、くれてやるとまで言った。だけど、自分のことだけは渡したくないのだという。


 その言葉だけで生きていけるから、と茜が言っていたのを思い出す。夜にしか会えないから何だ、鬼だから何だと、俺はお前のことを妻だと思っているとそう告げた時に、茜はそう言ったのだ。その言葉だけで生きていける、と。


 いまならその気持ちがわかる気がする、と白狼丸は思った。


 例えこの先、茜と二度と会うことが出来なくなったとしても、この言葉だけできっとおれは生きていけるだろう、と。


 いやいや、二度と会えなくなるなんて、そんなことが万に一つもあって堪るか、と思い直して、白狼丸はじわりと浮かんだ涙をこっそりと拭った。


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