飛助と小萩②

 その翌日の早朝のことである。


「おい、阿呆」


 顔洗い場へと向かう廊下で、朝の挨拶よりも先に投げかけられた言葉に、飛助はむっと眉を顰めた。


「いきなり阿呆とは随分な挨拶だな、白ちゃん」

「阿呆を阿呆と呼んで何が悪い。狐に鼻の下伸ばしやがって」

「うるさいな」


 そりゃあれは確かに狐だけどさ、とその声は小さい。事実であるだけに、そこを突かれるのは弱いのである。


「いつまで続けるんだ、こんな茶番」

「茶番とか言うな」

「茶番だろ。どんな関係かは知らねぇが、偽物のガキと家族ごっこなんかしやがって」

「そりゃ、あの小萩は偽物だけど……」


 偽物という言葉に反応して、不意に滲んだ涙を袖で拭う。こんなやつに泣き顔を晒してたまるか、と。


「白ちゃんには関係ないだろ」

「関係ねぇけど」

「狐に騙されてる阿呆だと勝手に笑ってろよ。おいらは別に気にしないから」

「ああそうか。それじゃおれはそうさせてもらうがな」


 その言葉を聞いて、足早に立ち去ろうとしたところで「ただ」と背中に声をかけられる。


「太郎のことは気にかけてやれ」

「何のことだよ」


 その名を出されれば振り返らぬわけにはいかない。


「お前が構ってくれなくて寂しいんだとよ。やけ酒食らってしなだれかかって来たぞ」


 少々大袈裟にそう言ってみる。

 確かに昨夜は太郎にしてはよく飲んだ(猪口半分程度)が、やけ酒と言うほどではないし、しなだれかかったのは白狼丸に対してではない。ただ、太郎が寂しがっていたのだけは、これだけは丸ごと本当だ。


「まさか、そんなタロちゃんに手を出したわけじゃないだろうな! 茜ちゃんだけじゃ飽き足らず、お前!」


 あっという間に距離を詰め、胸倉を掴まれる。けれどこれくらいは想定内だ。わざと掴ませたといっても良い。


「出してねぇよ。お前が何と思おうが、おれは茜一筋だからな。太郎の方にはそんな感情は持ち合わせてねぇって、いつも言ってるだろ。だけど、そんなに心配なら様子を見てきたらどうだ。あいつならまだ寝てるぞ」


 昨日は珍しく飲んでたからなぁ、と嫌味たっぷりに言ってやると、言われなくても! と声を荒らげて、乱暴に手を放した。いつもの軽い身のこなしもなく、どすどすと廊下の板を踏みしめて去っていく仲間の姿に、白狼丸は「どいつもこいつも手がかかる」と呟いた。



「タロちゃん、タロちゃん。開けても良いかい? 起きてる……?」


 さっきまでの怒りをしゅんと萎ませて、恐る恐る声をかける。けれどそれに応えはない。よもや吐いたりなどして喉に詰まらせているのはあるまいな、などと考え、「ごめん!」と短く詫びてから、すぱん、と勢いよく戸を開けた。


 お世辞にも広いとは言えない室内は酷い酒の臭いが立ち込めて――はいなかった。白狼丸と青衣が退室する前にしっかり換気をしていったことと、そもそもそこまでの量を飲んでいたわけでもないからである。


 太郎は部屋の隅に寄せた布団で丸くなって眠っていた。幼い子どものように、きゅ、と背中を丸めているのは、寒さからか、それとも白狼丸が言っていた『寂しさ』からか。壁の方を向いて、掛け布団の端を両手でぎゅっと握っているその横顔が心なしか悲しそうに見えて、飛助は「ごめんよぅ」と小さく詫びた。


 もちろんそれは太郎に届くわけもなく、彼は相変わらず、すぅすぅと寝息を立てている。


 飛助の知る限り、太郎というのは徹底的に他者を優先する男だ。ただその『他者』というのは、必ずしも自分以外の人間全てを指すわけではない。友や仲間、それから家族といったような、彼の近しい人物である。

 老いた育ての親を養うのだと言って町へ出て金を稼ぎ、仲間が困っていると聞けば借金だって平気で背負う。粗末な鍬を宛てがわれたのが不満らしいと思えば――もっともこれは彼の聞き間違いと勘違いによるものだが――給金をはたいて立派な鍬を買ってやり、一人で身を投げた母親が不憫だと言ってその命すら差し出そうとする。


 そんな彼が。

 寂しいと零していたのだという。


 犬猿の仲であるあの白狼丸が、あんな馬鹿猿なんてほっとけよ、おれがいるじゃねぇかと肩を抱きそうな(そして絶対にやったと思う)あの白狼丸が、わざわざ知らせに来たのだ。よほどだったのだろう。慣れぬ酒を飲んで、いつもしゃんと伸びている背中を丸め、しなだれてしまうほどに。


「タロちゃぁん」


 枕元に座って、するりとした白い頬を、つん、と突く。


「寂しい思いをさせてごめんよぅ」


 尚も、ごめんよぅごめんよぅと呟きながら、ついついと頬を突くと、さすがに太郎も目を覚ました。けれどまだ覚醒しきっていないらしく、「あれ?」と寝ぼけた声を発して目を擦っている。


「タロちゃん、おはよ」

「おはよう。いや、何で飛助が……?」

「タロちゃんに会いたくて来ちゃったんだ。ごめんよ、返事がなかったから勝手に入っちゃった」

「それは……別に良いけど」


 まだぼんやりしつつも、むくりと身体を起こす。ふわぁ、と一つ大きなあくびをしてから、へらりと笑った。


「何か久しぶりな感じするな、飛助とこうやって話すの」


 その表情も相まってまだ眠そうではあったが、それが何とも可愛らしく見えて、飛助は一も二もなく彼の胸に飛び込んだ。


「うわぁん! タロちゃぁん!」

「わぁ、何だ!? どうしたんだ飛助」


 その衝撃でさすがにはっきりと目が覚める。タロちゃんタロちゃんと言いながら、胸に顔を擦りつけてくる飛助に、彼はどうして良いやらわからず、ただおろおろしていた。


 と。


「――ぁたぁっ!」


 ごつ、という音と共に、飛助の頭が沈む。


「油断も隙もあったもんじゃねぇな、お前は!」

「何だよぉ、邪魔すんなよぉ!」


 拳骨を落とされた頭頂部を擦りながら涙目で振り返る。


「あぁ、白狼丸おはよう」

「おう、おはようさん」


 そこだけは呑気な空気が流れているのがまた飛助には腹立たしい。ぎぃ、と強く睨みつけてやるが、白狼丸は、そんなものどこ吹く風である。


「姐御じゃなかっただけ感謝しろよ。あの人、苦無くない新調してたからな」

「げぇっ、苦無とか、姐御マジでる気じゃんか」

「な、感謝したくなったろ」

「うるせぇ!」

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