雪の夜の客

白狼丸の紅葉①

「あぁ良かった、何も変わってない」


 という言葉は、彼の作業台の上に放置していたやりかけの仕事についてもであったし、それから、白狼丸と、押しかけ女房の千鶴との関係についてもである。

 もちろん後者の方については、何事もなく万事解決――つまり諦めた千鶴が石蕗つわぶき屋を出て行っている――という形が一番望ましいわけだが、それはどう考えてもすんなりいくとは思えなかったので、となれば、刃傷沙汰になっていないだけでもまぁ御の字ではある。


「おう、お疲れさん」


 そう声をかけてきた一平に、「ただいま戻りました。何か変わったことなかったですか?」と返す。


 石蕗屋は老若男女様々な客が来る店であるため、毎日大なり小なりの事件はある。それこそ、いつもは大して売れない飴菓子が予想外に売れて在庫が足りず大変だった、などという笑い話もあれば、売り子に一方的に思いを寄せていた客が、その売り子が他の者と話しているのを見て逆上し刃物を――などという物騒なものもある。ちなみにこの場合、その売り子というのは太郎だったりするのだが。


 だから飛助は、あくまでも『店で』何か変わったことはなかったですか、という意味で尋ねた。つもりだった。けれど、一平が笑いを嚙み殺しながら「それがな」と語り始めたのは、およそ店とは関係のない話である。


「白狼丸のやつ、なんだかんだ言っても、やっぱり我慢出来なかったんだろうな」


 そこまで言って、どうやら堪えきれなかったらしく、ぶはぁ、と吹き出して、ひぃひぃと笑いながら、まなじりの涙を拭う。そこまで笑える話ならばもちろん飛助も気になるところである。


「えぇ、ちょっとちょっと、一平さぁん。笑ってないで教えてくださいよぅ」


 肩をゆさゆさ揺すって続きを強請ねだると、わかったわかったと、言いながら呼吸を整える。


「いや、傑作よ。あいつ、今朝頬っぺたにでっかい紅葉をこさえてきてな」

「えっ?!」

「大きさからしてどう見ても、ありゃあ女よ」

「お、女……。その、相手って……」

「それが誰かなんて絶対に口を割らねぇんだけどな? だけどここであいつが手を出せる女なんてどう考えても千鶴しかいねぇって。そうだろ?」

「ま、まぁ……そうかもしれないけど」


 確かにそうなのだろう。

 白狼丸というのは、まぁ、悪いやつではないし、見てくれだってちゃんとすればそこそこなのだろうが、とにかく女にモテるような男ではないらしい。らしい、というのは、食堂で一緒になった姉さん連中がそう言っていたからだ。


「あんな野生児みたいなの、頼まれても絶対に嫌」

「どうしてあんなのと太郎ちゃんが一緒にいるのかしら」

「太郎ちゃんまであんなのに染まったらどうしてくれんのよ」


 もっと酷いことも言っていたが、彼のためにもそこは聞こえないふりをしていた飛助である。

 

 同性からすれば、あれはあれで裏表もなくわかりやすくて良いやつだとも思うし、仕事だって案外頼りになるのだが、異性からすれば、どうしても彼の粗野な面が邪魔をするらしい。

 

 だから、そんな白狼丸がコトに持ち込める相手、といえば限られる――というか、現状では千鶴しかいない。厳密には千鶴しかいないわけではない、というか、そもそも選択肢など彼の中にはないのだろうが。


 とにかく一平が言いたいのは、つまり、皆の前ではお前を娶るつもりはないなどと言いながらも、結局、千鶴に手を出したらしい、ということなのである。そしてこれは『らしい』などではないのだ、と。きっぱり断言してさえいるのだ。


 が。


 飛助は、その相手が千鶴ではないとわかっていた。

 確実に茜である。

 確かに、並の男なら、条件が揃わないと会えない女より、四六時中そばにいて好きだ好きだと言ってくる女につい手を出してしまうかもしれない。自分だって、その状況に置かれたらそうするかもしれない。


 だけれども、あの男の茜に対する思いは並ではないのだ。

 それはわかるけれども、茜の存在は、ここではご法度なのである。そう考えると、その紅葉の相手は千鶴であるということにした方が良いのかもしれないが。


 ――にしても。


 いや、相思相愛なんじゃなかったの、君達!?

 それとも何、無理やり襲い掛かったの?!

 やっぱり白ちゃんてば、けだものなんじゃないか!


 この場合、心配なのは、平手を食らった白狼丸よりもそれを放った方である。心優しい太郎のことだから、例えやったのは茜だといっても、自分を責めているだろう。あと、ついでに言うならば、茜は鬼なので、力加減によっては、白狼丸の頬骨が粉砕されている可能性もある。それについては多少心配ではあるが。


 だから飛助は、単純にその紅葉についてからかうのが先か、その皮膚の下の骨を心配すべきか、それとも胸を痛めているであろう心優しき仲間を慰めるべきかと考えて――、


「一平さん、おいらちょっと店の方行ってくるね」


 と、迷わずに太郎の元へと走った。

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