久しぶりの逢瀬②
「どうした、茜」
大きな瞳からほろほろと涙を零し、ぐすぐすと鼻を啜り始めた茜の背中をおろおろと擦る。
嬉し泣きのようには到底見えない泣きっぷりに、白狼丸は大いに慌てた。
そうか、千鶴とのことを誤解させたままなのだった、やはり太郎だけに伝えても駄目なのだろうと思って、彼は「茜、聞いてくれ」と切り出した。
「あの娘とは本当に何もないんだ。何に誓っても良い、おれは、お前以外の女に心を動かされたりなんてことは決して――」
すっかり冷えている髪に指を通し、額に口をつけると、茜はやはりふるふると首を横に振る。
「わかってる。白狼丸が太郎に伝えてくれたことはちゃんと俺にも届いてたよ。だけど」
「だけど、どうした」
「俺は、この通り夜にしか会えない。桃が近くにある時も出て来られない。太郎の姿では、お前に好きだと伝えることすら出来ない。そんな俺に、どうしてお前の妻が務まるものかと、ここ最近ずっと考えてた」
「……はぁ?」
「それに俺は鬼だ。異形のものなんだ。だ、だからもし、お前が、ほ、他の女のとこ、ところに……行きたいなら」
行けば良い、と絞り出すように言って、茜は俯いた。んぐぅ、と喉が鳴る音が聞こえる。
全身を強張らせ、くぅくぅと嗚咽を堪えている様を見れば、それが本心でないことくらい容易に察しがつく。相手を思って自らを犠牲にするのは、やはり太郎である。けれど、白狼丸がそれを許すはずがない。
馬鹿野郎と怒鳴りつけたいところではあるが、急激に沸点に達した怒りは、やはり一瞬のうちにしゅんと冷えた。
こいつがこんなに悲しいことを言い出したのはなぜだ。
おれが不甲斐ないからじゃないのか。
「……頼むから、そんな悲しいことを言うな」
布団越しにも伝わる震えがどうか収まりますようにと、優しく撫で擦る。
「夜しか会えないから何だ。お前が鬼だから何だ。おれが妻だと思ってるんだから、お前はおれの妻なんだ」
「だけど」
「だけど何だ。まだ不安か。まだ足りねぇか。おれはお前に何と言えば安心させてやれるんだ」
ぎゅう、と強く抱いて、こめかみに口づける。怯えるように、きゅ、と瞑った瞳から、またも涙が一つ溢れた。それが再びゆっくりと開かれ、涙で濡れたまつ毛が震える。
「足りなくなんかない。俺は、その気持ちだけで十分なんだ。お前がいま言ってくれた言葉だけで生きていけるから。だから」
「だから、何だよ。それだけで生きるとか、身を引くとか言い出すんじゃねぇだろうな。お前はどれだけ己を殺しゃあ気が済むんだよ!」
相手が茜だと思ってもつい声が大きくなる。怒鳴りつけたいわけじゃない。だけれども、穏やかに伝えられそうにもなかった。
「だって。その方が白狼丸は幸せだ」
「何だと」
「俺は、お天道様の下でお前の手を取ることも出来ない。妻なのに、お前に飯の一つも作ってやれない。ただあの中庭で、お前が来てくれるのを待つことしか出来ないんだ」
会えない間、たった一人でそんな切ないことを考えていたのかと、胸が苦しくなる。けれども、それを話す茜はそれ以上に苦しそうな――いや、悔しそうな顔をするのだ。
それを出来ぬことがそんなに悔しいのなら、もっとおれに縋りついてくれば良い。捨てないでくれと、いっそ懇願してくれたら良いのに。
白狼丸はそれが悔しい。
思いを伝えあったはずなのに、茜は相変わらず一歩も二歩も引いてしまっている。それが悔しい。
おれはお前のものだと言ったではないか。何をまだ遠慮してやがる。
「お天道さんの下でお前の手を取ることがおれの幸せか。お前の飯を食うことがおれの幸せか。待つことしか出来ないなんて言うな。寒空の下で、いつ来るかも知れぬおれを待っててくれることが、そんなつまらねぇことより下なわけがねぇだろう」
ドスの利いた声でゆっくりそう言えば、茜は、下唇を噛んで泣くのを堪えている。白狼丸のものよりもずっと鋭い犬歯が、ぷくりと瑞々しい唇に食い込んでいるのが痛々しく、そこに柔く口づければ、茜は驚いたのか、呆けたように口を開いた。
「良いか、よぉく聞け、茜。おれの幸せは、おれが決めることだ。お前が勝手に決めてくれるな。おれは、夜しか会えないお前でも、異形のお前でも、構わないんだ。お前の代わりなんてものが、この世にあると思うな。おれの幸せを願うなら、そんな悲しいことを言わないで、ただおれのことを永遠に好いていてくれ」
頼むから、と諭すように言う。さっきよりもずっと優しい声色に、茜の肩から力が抜けたが、心はまだ固いようで、でも、と尚も声を震わせている。
「茜はおれが欲しくないのか。自分だけのものにしたいとは思わないのか」
「そりゃ、思うさ。でも、そんなこと言えないよ」
「何でだよ」
「だってそんなの……俺の我が儘だろ」
ひと際弱く吐き出された言葉に、白狼丸は、は、と浅く息を吐いた。
何だ、そんなことか、と。
「それを口にするのが我が儘だと思うなよ。おれはお前の我が儘が聞きたいんだ。良いか、好いた女の我が儘を可愛いと思うのが男というものなんだ。おれが欲しいなら欲しいと言えば良い。それをお前が我が儘と思ったところで、おれにとっては嬉しいだけなんだぞ」
だから、なぁ、思ったことを言ってみろ、と目を合わせて言う。
ぱちり、と一つ瞬きをして、まつ毛の上に乗っていた最後の涙がほろりと落ちる。それが頬を伝って落ち、布団の上にじわりと染みを作った。
吐き出すべき言葉が閊えているのか、むぐむぐさせている唇を指でなぞる。言葉が出てこないのは、口なんか閉じているからだ。だったら開けてやるまでよと意地になって、二度三度、啄むような浅い口づけをすれば、狙い通りにそこは薄く開かれた。
ほら、これでどうだ、と歯を見せて笑うと、茜は観念したように眉を下げた。
「なら、言わせてもらう。お前が欲しいよ、白狼丸。身も心も、全部俺のものにしたい。誰にも取られたくない」
「おう、そうか。奇遇だな。おれもお前を手放す気なんざこれっぽっちもねぇし、ちょうどお前の全部をもらうつもりだった」
そう言って、再度唇を重ね、彼女に巻き付けていた布団を剥ぐ。今度はその中に自分も入って、すっかり温まった彼女の身体を抱いた。
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