久しぶりの逢瀬①

 今夜こそは、と意気込んだ夜半のことである。

 大部屋の兄さん連中がやっと静かになったのを見計らって、白狼丸はこっそりと布団から這い出た。


 きっと茜はおれのことを待っていてくれているだろう。待ってくれているはずだ。頼む、待っていてくれ。お願いします、待っててください。ただいまそちらに参りますゆえ。


 そんな思いで、ぺたぺたと廊下を急ぎ足で歩く。


 この僅かな距離さえももどかしい。

 会ったらまず何を話そうか。

 先に謝った方が良いのだろうか。

 手を握るくらいはしても良いだろうか。


 そんなことを悶々と考え、辿り着いた部屋の前で一つ大きく息を吸い、大部屋から離れているとはいえ、皆が寝静まった夜だからと、コン、と控えめに戸を叩く。けれど応えはない。


 今日も確かに店は忙しかったから、もしかして疲れて寝ているのかもしれない。そうも思うが、ここまで会えずに焦らされてきたのである。諦めきれるものでもなかった。

 用心深い太郎のことだからきっちり施錠しているだろうと思いつつも、一か八かに賭けてみれば、それは拍子抜けするほどにあっさりと開いた。


「あ……かね……?」


 わずかな隙間から、そう声をかけてみる。

 口直しの桃もなくなり、長屋からその香りも消えた。この時間ならもう既に太郎から茜に変わっているはずなのだ。だからもう一度、その名を呼んだ。


「茜、おれだ。白狼丸だ。お前に会いに来たんだ」


 それでも一応女の部屋だ。断りもなく中に入るわけにいかない。そう思い、その隙間から見える闇に向かって、声をかけた。


 外と変わらぬと思えるほどの冷気が流れ込んできて、吐く息も白く染まる。こんなところで一人寂しく寝ているのかと思うと、いますぐその身体を温めてやりたくなって、白狼丸は再度「茜」と名を呼んだ後、堪らずにその戸を大きく開いた。


 けれどそこに茜の姿はなかった。茜どころか、太郎すらいない。掛け布団がめくれ、人の形に窪んでいるそこは、触れても既に温かみはなかった。厠にでも行ったのだろうか。まさか、雪もちらつく中庭にいるわけがないだろうしな、などと考えて顔を上げ、壁に掛けられているはずの彼の毛皮がないことに気付いて――、


「あり得る!」


 と彼は叫んで部屋を飛び出した。

 

 考えてみればそうなのである。

 部屋で待っててくれなどと、伝えていたわけではない。最後に会った時だって、彼女は寒さに身を震わせながら彼の毛皮を纏って中庭に佇んでいたのだ。雪が降っているから何だというのか。


 何せ太郎なのである。

 底抜けに優しくて、生真面目すぎるがゆえに融通の利かないあの男を主人格とするならば、茜だって同様なのだ。


 白狼丸とはここで会うものだと捉えていても何らおかしくはない。


 最早足音など気にしていられんと、どたどたと廊下を走って中庭に急げば、やはりそこに茜はいた。纏った白狼の毛皮ごと、華奢なその身体を抱くようにして身を震わせ、いまにも泣き出しそうな顔で、きょろきょろと誰かを探すように辺りを見回している。


「茜!」


 夜半であることも忘れて、白狼丸は声を上げた。大きく跳躍して中庭に飛び出ると、勢い余って転びそうになるのを手をついて回避する。そのまま押し倒さんばかりに彼女を強く抱くと、やはりそれは氷のように冷えていた。


「茜、茜、寒かったろう。何もこんな薄着でおれのことを待たなくても」


 ぎゅうぎゅうと強く抱き、冷えた身体を擦ってやると、茜はふるふると首を振った。それが何を意味するのかわからず、どうした、とその顔を覗き込む。月明かりの下のその顔は白く、目にも力がない。小さく震えている唇にも色がなく、いつまでもこんなところにいるわけにはいかんと、白狼丸は彼女を横抱きにして歩き出した。


「は、白狼丸? 重いだろ、降ろせよ」

「重いわけがあるか」

「だけど」

「さすがに太郎の方なら厳しいがな、いまのお前なら軽々よ」

「そ……うなら、良いけど」

「火鉢がなくともここよりましだ、部屋に戻るぞ」

「わ、わかった」


 白狼丸の腕の中にすっぽりと収まった茜は、身を竦めて恥ずかしそうに口をむぐむぐさせている。置きどころがわからないのか、両手を胸の辺りで忙しなく閉じたり開いたりを繰り返しているのが、何とも可愛らしい。


 何に遠慮することがある、おれにしがみついてりゃ良いだろう、と促すように腕に力を入れ、その肩をより密着させてやると、恐々と襟を掴んできた。それで良い、と目を細める白狼丸である。


 部屋に戻り、敷布団の上に彼女を降ろす。そして、掛布団を彼女の身体にぐるぐると巻き付けてから行燈に火を灯すと、やっと彼は人心地着いて安堵の息を吐いた。


「白狼丸、これじゃ動けない」

「駄目だ。お前冷えてるんだから、これくらいしないと」

「大丈夫だよ。いままで太郎は風病にだってかからなかったんだぞ」

「だとしても、お前は太郎じゃない」

「太郎じゃないけど」

「女だろ」

「女だけど、俺は鬼だぞ」

「関係あるか。鬼だろうが何だろうが、女は身体を冷やしちゃいけねぇもんだ」

「でも、白狼丸だって寒いだろうに」

「寒かねぇよ」

「せめて毛皮だけでも着てくれ。頼むから」


 もぞもぞと身を捩らせてどうにか中で毛皮を脱ぎ、それを差し出してくる。仕方なくそれを羽織ると、彼女の体温でほんのりと温い。


 毛皮がなくなった分だけ少し小さくなったような布団の塊ごと彼女の身体を抱く。だいぶ温まって来たのか、白かった頬と唇にはうっすら赤みが差している。


 その頬に触れ、「なぁ茜」と言いかけたところで、彼女はほろりと涙を流した。

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