「先日の恩を返しに参った」
葛桂の腕利きの職人
飛助のお遣い①
「ここは全然変わらないなぁ……」
はぁ、と大きく吐いた息は白い。それは天に上る途中でもわもわと消えていく。
村ですらないそこは住んでいるのも腰の曲がり切った老人ばかりで、これといって何もないところであるから、今後もここが栄えることはないだろうと断言出来る集落である。老人達と共に朽ちていき、そうしていつかは消える、そんな場所だった。
そんな集落に、その男はいる。
そんな知る人ぞ知る寂れた集落の職人と平八が、どのようにして知り合ったかはわからない。けれど平八の話では二年三年程度の浅い付き合いなどではないようで、折につけては菓子を届けたりなどもしているのだとか。
あの旦那、案外顔広いんだよなぁ。
その節は鬼呼ばわりしてすまんかった、と心の中で詫びながら、雪道をさくさくと歩く。
歩きながらふと考えるのは、仲間達のことである。
仲間達と言っても、それは共に働く
さすがにもう貯蔵庫の桃は尽きたよな、とこっそり忍び込んでは密かに数を減らしてやっていた果実を思い出して、あれは良い桃だったとよだれを垂らす。
タロちゃんはおいらに感謝すべきだ。
そんなことを考えてから、いや、違うな、と頭を振る。
感謝するのは白ちゃんの方か、と。
何せ桃さえなくなれば彼は愛しい妻に会えるのだから。
「おいらってばほんとに良いやつぅ」
食堂係のお峰母さんが張り切って寒桃を仕入れたせいでもう何日も会えていないはずだから、やっと会えるとなれば、そりゃあもう盛り上がっちゃうんだろうな、と下卑た想像をして、いひひ、と笑う。
さすがに可哀相だから、『茜』と会っている時は何もしないでやってくれよ、と青衣にも釘を刺しておいた。太郎を『坊』と呼び、それこそ我が子のように溺愛している彼女――いや彼ではあるが、さすがにお互い好き合っている男女の仲を裂く趣味はないらしく、
「わっちがそんな無粋な真似をするとでもお思いかえ?」
と笑い飛ばされてしまったが。
だからきっと、昨日の夜あたりだったんじゃないかな、などと思う。
「良いなぁ」
灰色に曇った空に向かってそう呟く。
羨ましいのは、その相手が太郎(厳密には太郎ではないのだが)だからというだけではない。
こんな寒い季節に、身を寄せ合う相手がいることが、だ。
生まれた時から、飛助の周りにはたくさんの人がいた。
飛助は代々軽業を生業とする家の生まれで、大きな屋敷を構え、住み込みの団員達と一つ屋根の下で暮らしていた。その後、父親が独立してあちこちを旅して回るまでは、近場の芝居小屋や劇場で芸を見せていたものである。
幼い頃に母を亡くした飛助にとって、彼の本当の家族は父親しかいなかった。祖父やら伯父伯母などの親戚も一緒に住んではいたが、彼らは父親と折り合いが悪く、飛助自身もあまり好きではなかったのだ。
だから彼の『家族』といえば、父親と、それから、入れ替わりの激しい団員達だった。
ワイワイと賑やかな声で目を覚まし、それは自分のだ何だと争いながら騒がしく飯を食い、俺の方が上手いと張り合って技を磨く。いがみ合って、時には掴み合って揉めていたはずの兄さん同士が風呂を済ませて酒を飲めば、やはりお前は最高の友だなどと笑っていたりもし、酒の飲めない頃はもっぱらそれを遠巻きに眺めるだけだったけれど、とにかく毎日が騒がしく、賑やかで、楽しかった。
飛助にとっては、それが家族の姿だった。
血の繋がらぬ男女が共に暮らしていれば、当然のように惚れた腫れたの話にもなるし、兄さんの頬に鮮やかな紅葉の手形がくっきりとつけられている日もあった。いつも姉さんに叱られてめそめそ泣いていた兄さんが、「俺達、夫婦になりました」などと言ってその姉さんと共に団を抜けることもあったが、これといって大っぴらに募集せずとも、入団希望者はどこからか現れたものだ。
だけどあの日。
彼の親父が借りた金を持ち出して煙のように消えてしまったあの日。
あの日から、家族はなくなってしまった。飛助の頭には、団長の息子である自分が皆を守らなければと、それしかなかった。いま思えば、焦って団を解散させずとも、自分が地べたに額を擦りつけてでも金を集めればどうにかなったかもしれない。
だけど、彼は焦った。
団には彼より若い女も、子どももいた。こんな状況でなくとも、日常的にそういう目的で声をかけてくる下衆な輩も多かった。何も知らぬちび助が甘言に乗せられて連れて行かれそうになったこともある。
各地の興行の中で知り合った寺々の坊主に頭を下げて、若い女と子ども達を引き取ってもらった。
一人でも生きていけそうな者、食える技を持っている者は、わずかにあった生活費を分けて叩き出した。
そうして、本当に一人になって、飛助は逃げた。
初めて迎えた一人の夜は、暗く、寂しかった。
酷く疲れている時なんかは、騒がしい夜を恨んだこともあった。静かにゆっくり眠りたいと思ったことも何度もあった。けれどそれは、近くに人の体温があってこそだったのだと、彼は、孤独にがたがたと震えながら目を閉じた。
走り回った身体は疲れきって、重かった。けれど睡魔は一向に現れてはくれなかった。
これからもこんな夜を過ごすのかと思うと、闇よりも、寒さよりも、何よりもその孤独が恐ろしくて、濡れた袖を乾かしてくれるだろう朝日が昇るのをただじっと待った。
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