押しかけ女房と愛しき女鬼

鶴女房①

 軽くとはいえ、衆目の前で唇を奪われた形となった白狼丸は、魂でも抜けてしまったかのように呆けた表情で数秒間固まっていたが、はっと気が付き、慌てて太郎の方を見た。


 けれど彼はというと、怒るでも、悲しむでもなく、むしろ勢いよくこちらに向いた白狼丸の顔に驚いたような顔をしており、「どうした?」と呑気な声を上げるのである。それはまだ想定の範囲内であったが、心配なのはその彼の内側である。恐らくは、も見たはずだ。自分の夫の唇が他の女に奪われるところを。


 そして彼の隣にいる飛助は、これまた酷く呆れたような顔をしていて、「おいら、知ーらない」と言いながら、どこからか取り出した饅頭を齧っている。


 茜が出て来てくれなければ直接謝罪することも叶わず、八方塞がりの白狼丸であった。



 さて、女中部屋である。

 様子を見に来たと言ってわらわらと集まってきた女中達によって、きゃあきゃあと大盛り上がりであった。


「ちょっとアナタ、大人しそうな顔して大胆ねぇ」

「ねぇ、白狼丸のどこが良いわけ?」

「そうよ。あんなのより絶対太郎ちゃんじゃない」


 娘を囲んで質問攻めしていると、オッホン、というわざとらしい咳払いが聞こえてきた。はいはいちょいとお退き、とその波をかき分けて現れたのは八重やえ五月さつきである。


「そんなに寄ってたかっちゃあ、答えられるものも答えられないでしょ」

「そうそう。まずは名前から聞かないと」


 売り場の花形の登場に、女中達は、それもそうかと一歩下がる。彼女らに圧倒されていたらしい娘は、ほぅ、と一息ついて「ありがとうございます」と二人に頭を下げた。


「それで? あなた、お名前は?」

 

 八重が柔和な笑みで尋ねると、娘は恐々と「千鶴ちづると申します」と名乗った。


「どこから来たの? 家はどの辺?」


 今度は五月が、迷い児にでも接するかのように、その小さな背中に触れながら優しく問いかける。


「あの、桃望沢とうぼうざわの近く、です。ですが、家はなくて、その」

「あら、それは大変ねぇ」


 八重と五月が揃って眉を下げると、その色香に当てられた女中達が、ほぅ、と目を細めた。太郎ほどではないが、さすがは東地蔵評判の小町娘達なのである。


「八重姉さん、五月姉さん。この子、旦那様にお願いしてしばらくここに置かせてもらったらどうかしら。足も怪我してるみたいだし」

「それ良い考えよね。そしたらほら、白狼丸とも一緒にいられるし? 何か簡単な手伝いでもさせてさぁ」

「そうよそうよ! さすがにあの男だらけの倉庫に女一人ってのは危ないから、手伝うっていっても店の方だろうけどっ」

「あーら、倉庫でも大丈夫じゃない? あの白狼丸が守ってくれるわよぅ!」

「きゃーっ、それも良いわねぇ!」


 当の本人をさておいてキャッキャと盛り上がる女中達に、五月と八重はやれやれと揃ってため息をついた。ここの女中は皆仲が良いのだが、『かしましい』の漢字が示す通りに、集まればうるさいことこの上ない。


「どうする?」

「あなた次第よ?」


 けれどもそれは良い案かもしれないと苦笑混じりにそう尋ねると、千鶴は、ぱぁっと顔を明るくさせて「ぜひ」と身を乗り出した。



 一方その頃、奥の座敷では、倉庫係の男衆から解放された白狼丸が両手をついて項垂れていた。


 何となく一件落着(あるいはどうでも良い)の空気が漂い始めたことから、いつまでも店を閉めっぱなしにしておくわけにはいかないと、その部屋に残っていた数人の女中が腰を上げ、とりあえず太郎がいれば客は入るからと彼を引っ張って行ってしまったのだった。それに釣られる形で裏方の男共もわらわらと退室してしまい、残されたのは白狼丸と飛助、それからなぜか葉蔵の三名のみである。


「違う……。違うんだ本当に……。おれはあんな女に覚えなんてないんだ……」


 それがこの場にいない茜への弁明であるとわかるのは飛助だけだ。最初こそ、いつもおいらとタロちゃんの仲を邪魔する駄犬めいい気味だと思っていた飛助だが、このあまりの消沈ぶりを見れば、多少なりとも同情はする。白狼丸もそうだが、飛助もやはり仲間に対しては非情になりきれない質なのである。


「白ちゃんさ、ほんとのほんとに覚えがないわけ?」

「ねぇ! 天地神明に誓ってそれはねぇ!」

「でもさ、あれがまぁ美人局つつもたせの類としてもだよ? ああいうのって必ずどこかで関わってるはずだと思うんだけどなぁ」


 白狼丸の向かいにどっかと座って顎を擦る。だからつまりさ、と続けながら、懐に手を入れ、すぽ、と懐紙に包まれた煎餅を取り出した。ぱり、と小気味良い音を立てて齧ってから葉蔵の存在を思い出し、「兄さん、半分食べます?」と尋ねる。いらん、という想定内の返事を待ってから、飛助は続きを語った。


「疚しいことはなしにしてもさ、どこかで会ってはいるんじゃないかな、って思うわけよ」

「そ、それは確かに」

「そうだよなぁ。全く見ず知らずの他人に、あの時はよくも! なんて迫っても意味ないもんな」

「でしょでしょ。だからね、そういう意味でも何かないわけ? 別にさ、白ちゃんがねやで相手の足首にあんっなくっきりと歯型をつけるような狂気じみた嗜虐趣味があるとかはこの際問題じゃないから」

「だから、おれはそんなことしねぇって! 第一アレはじゃねぇだろ!」


 思わず立ち上がってそう叫んでから、白狼丸は何かに気付いて「あ」と短い言葉を吐いた。


 

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