訪ねて来た女①
誰だ誰だと思いながら、普段は滅多に足を踏み入れない店の方に行くと、彼に気付いた太郎が、昨日の不調など嘘のようにしゃんと伸びた姿で「白狼丸、お前に客だ」と言う。
すると、そんな彼の華奢な身体にもすっぽりと隠れてしまうほどの小柄な女が、ひょこ、と顔を出した。
ほんとに誰だこいつ。
正直に、そう思った。
白狼丸は基本的に作業部屋と倉庫の行ったり来たりなので、客と顔を合わせることがない。仕入先の業者とのやり取りくらいはするが、小豆やら砂糖やらを運んでくるのは諸肌脱ぎで筋骨隆々の男が多く(稀にこっちが心配になるような萎びた爺も来るが)、女といえばここで働く女中くらいしかいない。
それでもたまの休みには外に出るため、そこですれ違うくらいはしたかもしれない。袖すり合うも他生の縁とはよく言ったものだが、果たしてそんなことでもあっただろうか。
けれども仮にあったとして、わざわざ訪ねて来るとは一体何事か。
一応、若い女相手だからと彼なりに精一杯気を遣って「お前誰だ」という言葉は飲み込んだものの、尋ねたいのはその一言に尽きる。せめてもっと丁寧な言い回しをしてやらんと、などと考えている白狼丸の肩にずしりとした重みが加わった。
「わわ、可愛い女の子じゃーん。えぇ、何、白ちゃんやるぅ」
「うわ、馬鹿猿。いつの間に」
「へっへー、気付かないなんて白ちゃんもまだまだだよね。それで何? こちらのお嬢さんは」
「し、知らねぇ」
「知らねぇってことないだろ? あっ、わかった! タロちゃんの前だから言い
「うるせぇ!」
「二人共よさないか。店の中だぞ」
客人もお待ちだ、と自分の陰に隠れたままのその女の背中をそっと押してやると、その娘は、ととと、と軽くたたらを踏んで前に出た。
艶のある黒髪は肩よりもわずかに長い程度で、前髪を眉の上でぱちんと切りそろえているのが何とも幼い印象を与える。それを差し引いても十二、三くらいだろうなと思われた。まだ女になりきれていない、凹凸の乏しい身体つきである。
少し吊り気味の細い目の端と小さな唇がうっすらと赤く、それとは対照的に頬には何の色もない、肌の白い娘だった。
「えっと、お嬢ちゃん、おれに何の用だ? わざわざ来てもらって悪いんだが、全く身に覚えがねぇ」
そこまで言って、善行の類ならまだしも、知らず知らずのうちに何か失礼なことでもしてしまったかと、記憶を手繰り寄せられるだけ手繰ってみたが、やはり何の心当たりもない。
すると、彼女はその白い頬に、やっと赤みを差しながらこう言うのである。
「あなたの妻にしてください」
と。
その後の石蕗屋は、それはもう大変な騒ぎだった。
二人のやり取りを何となく気にしながら接客していた売り子の一人が、驚きのあまりに持っていた菓子の箱を落として客を怒らせたり(その客のなだめ役は太郎にお鉢が回ってきた)、その客の怒声を聞きつけて何事だと平八が飛んできたり(事情を説明したのは飛助だった)、あの白狼丸を訪ねるとは、どれ、どんなおかちめんこだとこっそり様子を伺っていた倉庫係の男集は「何でこんな可愛い娘がお前に!」と白狼丸に掴みかかったり――だったのである。
とりあえず落ち着くまでは、といまいる客をすべて捌き切った後で一度暖簾を外し、その代わりにと『準備中』の立て看板を置いて、石蕗屋は異例の一時閉店状態となった。
「ええと、そんで――」
通された座敷の真ん中で、名も知らなければ身に覚えもない妻希望者と向かい合った白狼丸は、その後ろにずらりと
彼としても本来であれば従業員一同に見られながら、こんな見合いまがいのことをしたいわけではない。
ないのだけれども。
何せこの店において白狼丸という男は、『幻覚を見るほどに女に飢えた男』なのである。
そんな男が若い女と二人きりというのは、猛獣の檻に兎を放り込むようなものだ、と誰か(実は飛助である)が言い出し、このような事態となったわけだった。
「……なぁ、俺もここにいるべきなんだろうか」
きちんと正座をした太郎が、肩を竦めて隣に座る飛助に耳打ちする。
「当たり前じゃん! 事と次第によっては、この場で打首ものの大罪なんだよ?」
「打首もの? 白狼丸はあの娘に一体どんな酷いことを……?」
「いや、まぁこの場合の『酷いこと』はあのお嬢ちゃんにっていうより……」
茜ちゃんに、なんだけど、とさらに声を落として言えば、太郎はさらに目を剝いて驚いた。
「そんな、白狼丸に限ってそんなことあるわけが。だってあいつは昨日」
「昨日? ちょっとそれ後で詳しく聞くね?」
そんな二人のやり取りが聞こえて、白狼丸は気が気ではない。何せこの場に茜はおらずとも、太郎がいる。いまは太郎だからといって、その内にいる茜に何の影響もない、ということは考えにくい。何せ昨夜は、白狼丸への思いが溢れた茜によって、太郎に異変が起きたのだ。
違う、違うんだ。天地神明に誓って、疚しいことなんざひとっつもねぇ!
どうか届けと強く念じたが、突然のことながら、それが伝わるわけもなかった。
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