友としての一線②
再び行灯に明かりが灯され、部屋の中が柔らかな橙色の光に包まれると、そこにいたはずの青衣の姿はどこにもなかった。
ただ、彼女――いや、彼が確かにいた証拠として、白狼丸の右頬には戒めのような引っ掻き傷が走っていたと、そういうわけである。
「さすがは元忍び……」
殺しは専門外だなんて
「あれ、青衣は? 青衣?」
白狼丸がそんな思いで肝を冷やしていることなど露知らず、太郎はもうそこにいない仲間の名を呼ぶ。
「おかしいな。確かにいたはずなのに」
きょとん、と首を傾げて、「いたよな? 白狼丸も声を聞いただろ?」などと呑気な声で問い掛ければ、白狼丸はぴりりと痛みの走る頬に手をやって苦笑するしかない。
「いた……みたいだけどな。もう帰ったんじゃねぇかな」
「そうか。何か用があったんだろうか。ゆっくりしていけば良かったのに」
残念そうにそう呟くが、白狼丸としては、あの恐ろしい元忍びにこの状況でゆっくり滞在されては命がいくつあっても足りないと思う。
「しかし、姫を守るとか言ってたけど……。もしかして――」
眉間にしわを寄せ、むむ、と唸ってからちらりと視線を合わせられ、白狼丸はぎくりと肩を竦めた。
太郎は昔から、自身が『男』であることを殊更に強調してきた。茜の存在を知るまでは、てっきり何度も女児に見間違われてきたが故かと思っていたのだが、もしかしたら、内に女鬼を宿しているからこそ、無意識的にそれを押し止めようとしていたのかもしれない。
だからきっと、姫扱いしたなどと知られては、温厚な彼といっても気分を害するだろう。そうは思うものの、かといってなんと説明したものかと、半端に開いたままの口をあうあうと動かして、ただ、「ああ」だの「うう」だのと意味のない言葉を並べる。すると、太郎は眉を寄せたままの真面目腐った表情で、尚も「もしかして」と言うのである。
もしかして、また忍びに復帰して、どこかの城に仕え始めたのではないだろうか、と。
「ううん?」
「それで、そこのお姫様の護衛の任にあたっているのかもしれないな」
「え? えぇ?」
「ということは、近くだったからついでに寄ってくれたとか、そういうことなのだろうか」
「い、いや、それは……」
太郎の飛躍しまくる想像に、どうだろうなぁ、と返すことしか出来ず、さっきまでの妙な興奮がすっかり冷めた白狼丸は、ぼさぼさに乱れている髪をわしゃわしゃと掻いた。
「何もそんな気を遣わなくても良いのにな。なぁ?」
勝手にそう結論づけ、それでもその気持ちが嬉しいのだろう、ふわりと頬を緩めて笑うその顔を見れば、何だか気も抜ける。そうだな、と返して、白狼丸は立ち上がった。
「そろそろ部屋戻るわ。何か色々すまんかったな」
色々、の部分はもちろんさっきの友としての領分を超えた抱擁と、一応未遂だろうということにしたい口吸いについてだったが、かなりの気まずさを滲ませたはずのその謝罪について、太郎の方では何事もなかったかのような涼しい顔で「礼を言うのはこっちの方だ」などと言うのである。
「随分と身体が楽になった。茜も気が済んだんだと思う」
「え。お、おう」
「きっともう少しの辛抱だろうからさ、茜も、お前も。貯蔵庫の桃が尽きるまでは会えないかもしれないけど、どうにか
な、と念を押されては、おう、と答える他ない。
そういうわけで、とりあえず健全――かどうかは別として――な友の関係を保ったまま朝を迎えたのである。
「いやマジで、姐御だけは敵に回しちゃなんねぇな」
「全くだよ。タロちゃんの護衛ってことなら確かに誰よりも頼もしいけどさ、命がいくつあっても足んないんだよなぁ」
「それはお前が太郎に手を出すからだろ」
「いや、白ちゃんが余計な依頼するまではあの人、ここに忍び込んでなんかいなかったからね?! 手を握るくらいは出来たのに!」
「てめえ、日常的に何やってんだ!」
「えぇ? 手くらい良いじゃんか」
「お前の場合、手だけじゃ済まねぇだろ!」
声を荒らげて指摘すると、「バレたか」と悪びれる様子もなく、あっはっはと笑う。ぼちぼち利用者が増えて騒がしくなってきたことに気付き、いつまでも馬鹿な話もしていられんと残っている飯をかっ込んでいると――、
「――おお、いたいた。白狼丸ー!」
入り口に首を突っ込んで食堂内をきょろきょろと見渡していた倉庫係の伊助が、探し人を発見して声を張る。
「んあ? 何だよ伊助さん。おれまだ飯食ってんだけど」
「とっとと済ませろ。お前に客が来てんだよ」
「はぁ? 客ぅ? 心当たりねぇんだけど。仕入れ先のやつか?」
「違う違う。女だよ、お・ん・な」
「女ぁ?」
素頓狂な声を上げて片眉を上げると、周りにいた男衆が、「お前も隅におけねぇな」であるとか「若いって良いよな」などと好き勝手に囃し立ててくる。それにいちいち反応するのも面倒臭い。何せ彼には、公表してこそいないものの、れっきとした妻がいるのだ。それ以外に彼を訪ねてくる女の心当たりなどないし、その妻にしたって、こんなに明るい時間に彼を訪ねてくるはずもないのである。
「何何、白ちゃんってば、浮気? ねぇ、浮気? ねぇねぇ」
囁くような声量ではではあるが、やけに弾んだ声を出す飛助をぎろりと睨みつけて、白狼丸は口の中に詰め込んだ飯を無理やり飲み込んで席を立った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます