友としての一線①

 その翌昼である。


「……よう飛助」

「おあぁ、白ちゃん。何、いまから? 早くない?」

「お前こそ」


 ぶっきらぼうにそう言って、断りもなく隣に座る。これが太郎だったら向かいに座るところだが、飛助なら隣だ。何せ、そんなにまじまじと見たい面でもなければ見せたい面でもない。


 利用者がまだ少ない食堂である。混雑する時間帯はまだもう少し後だ。


「あんがとな」

「はぁ? 何いきなり。気ッ持ち悪っ」

「てめぇ、おれがせっかく礼を言ってやりゃあよぉ」

「へいへい、有り難く受け取っときますぅ」


 その言葉を聞いて、これで義理は果たしただろうと味噌汁を一口啜ってから、山盛りの白飯をかっ込む。


「そんで? その気持ちのこもってない『あんがと』は何に対しての『あんがと』なわけ?」


 おいらが早々に退散したこと? と言う腹立たしいまでのにやけ面に、いつもなら振り上げる拳をぐっと押し止めて「それもあるがな」と返す。気持ちがこもっていないなどと言われた礼の言葉ではあるが、一応彼なりの感謝の心はある。


「茜のことだ」

「あぁ、そっちね」

「どうせ太郎のことだから、お前に指摘されるまで気付かなかっただろうしな」

「ま、おいらとしては、そういううぶなトコも可愛いんだけどねぇ」


 里芋を箸でぐさりと刺し、一口で頬張ると、片頬をまん丸くさせた状態で「で?」と首を傾げる。


「タロちゃんは? 元気になった? ていうか、なってなきゃ許さないけど」

「何でお前が許すとかそんな話になるんだ。元気になったに決まってんだろ」


 正面を向いたまま、にぃ、と口角を上げてやると、腹立つなぁその顔、と彼を横目で睨みつけて、


「そんじゃやっぱり当たってたんだな」


 と悔しそうに鼻を鳴らした。


「タロちゃんはタロちゃん、茜ちゃんは茜ちゃんだと思ってたけど違うんだな」

「まぁ、身体は一つだからな。どこかで繋がってるんだろ」

「ほぉほぉ。そんで? その『一つの身体』に何をした結果、?」


 ズバリ指摘され、うぐ、と声を詰まらせて彼の位置からは見えないはずの右頬に手をやる。


「お、やっぱり姐御はちゃんと機能してたか」


 ざまぁみろ、とけらけら笑う姿を見れば、どうやらいまのはカマをかけただけらしい。まんまとしてやられたと、ぴりりと沁みる傷痕をなぞった。


「てことはタロちゃんの貞操は守られたってことだな。いやぁさすがは姐御。優秀、優秀」


 あっはっはと愉快そうに笑う猿は腹立たしいことこの上ないわけだが、青衣が忍びとして優秀であることには違いない。そのお陰で彼は『友』としての一線を超えずに済んだわけなのだから。


 

 昨夜――、


「ま、待て白狼丸! 俺だ! 俺は太郎だ!」


 そんな彼の声が聞こえているのかいないのか、白狼丸は太郎の身体を柔く、けれども固く抱いていた。


 うわ言のように茜茜と繰り返しているから、きっと己の腕の中にいるのが男だということをすっかり失念しているのだろう、太郎はそう思った。

 この状態から一体何をされるのか皆目検討もつかないが、これだけでは済まないのではないかという嫌な予感だけはあった。


 この抱擁以外で彼が知っているのは、口と口を合わせる行為があるということくらいだ。この抱擁も、さっきのそれとは力の入れ具合というか、触れ方が違って何やら落ち着かないが、けれどもまだどうにか我慢出来る範囲ではあるものの、口を合わせるのは勘弁願いたい。いくら無二の友とはいえ、顔の距離が近すぎて恥ずかしいのだ。


 それに。


 何やら身体の内側から、力任せに戸を叩くかのような衝撃がどんどんと響いてくるのである。心臓の音にしては強すぎる気がするのだが、こんなに力強く脈打つ臓器が他にあるとも考えにくい。


 だからもしやこれは、茜なのではないかと思う。

 いくら太郎自分であっても、それだけは許さんと、必死に訴えているのではないだろうか、と。


 そこに思い至り、他ならぬ茜のためならばそこは何としても死守せねばなるまいと、太郎は己の口元を両手で覆った。白狼丸の方を押さえるのは憚られたのだ。何せ力の入れ具合を間違えて、彼の鼻から下を粉砕でもすればことである。


 案の定、我を忘れた白狼丸の狙いはそこだったようで、その鉄壁の守りに落とされる口づけの雨に辟易しつつも、ここからどう脱出したものかと耐えていると――、


 急に部屋の明かりが、ふ、と消えた。


 隙間風でも入り込んだかと、窓に目をやるが、明かりのない夜の闇の中ではそれを確かめようもなかった。彼を抱く白狼丸が微動だにしないのも妙である。


 きっちりと合わせた両手をほんの少しだけ開いて「白狼丸?」と問い掛けてから気が付いた。部屋の中に、もう一人、自分と白狼丸以外の人間がいる。微かな衣擦れの音に、二人以外の呼吸音。それを太郎は確かに聞いた。


「姫を守れと依頼した本人が手を出すってのは、どういう了見だァ? なァ、犬っころよォ」


 刃のような冷たい声が太郎の耳にも届く。その主にもちろん覚えはあるものの、普段の柔らかなそれとはかけ離れた低い声に、太郎は、闇に向かって恐る恐る問い掛けた。


「青衣?」


 と。

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