白狼丸の帰宅③
ぎゅうぎゅうと
すなわち、おれがいなくて寂しかったからではなかろうか、と。
腕を解くと、もうすっかり元気になったような表情で、太郎は、ふはぁ、と息を吐いた。白狼丸がさんざん葛藤したことなど知らず、呑気な顔で「白狼丸は温かいなぁ」などと言う。
「何せずっと歩き通しだったからな」
「疲れているだろうに、すまなかった」
「何、これくらいのこと屁でもねぇ。それより、身体はもう良いのか」
「ああ、何ともない」
「桃か?」
ずばり尋ねてみると、太郎は「うん、まぁ」と何とも歯切れが悪い。
「それもあるかもしれないと思うんだけど」
「だけど?」
「それをここで言うわけにはいかないだろ。皆、美味そうに食ってるし」
「まぁ……確かになぁ」
「特に葉蔵兄さんは桃に目がないらしくてな。なのに、俺に勧めて来るんだ。あれには参った」
「うわぁ、マジか」
まず伝えるべきは人見知りの方ではなく、桃嫌いの方だったかと白狼丸が肩を落としていると、葉蔵の気持ちなど知る由もない太郎は、そんなに好きなら自分が食えば良いのになぁ、などと言って首を傾げた。
「でも、集落にいた頃はいまよりもっと桃は近くにあったじゃねぇか。なのにどうしてまた、なぁ」
ごろりと布団の上に寝転がってから、そういや着替えも済ませていなかったことに気付き、やべぇ、と呟いて身体を起こす。そういやこの汚れた着物のまま太郎に抱き着いてしまったこともいまさら思い出し、彼の寝間着を見てみれば、洗ったばかりなのだろう、真っ白いそれにはところどころ、赤茶色い土がついてしまっていた。
すまん汚した、と言いながら、胸元のそれを払ってやろうと手を伸ばすと、太郎はびくりと身体を震わせてそれを避けた。
「おい、何だよ。逃げんな」
「いきなり来るからびっくりしただけだ」
「別に胸倉掴んで殴ろうってわけでもねぇんだから」
「わかってるけど。その」
「何だよ」
胸元に視線を落として自身で汚れを払った太郎は、そのままそこを撫でて、「あと、これは桃のせいだけでもなくてさ、いや、桃のせいでもあるにはあるんだけど」と言った。
「何だ」
「茜がな」
「茜が? 茜がどうした、おい」
おい、とさらに声を上げて太郎の両肩を掴む。何だどうした早く言えよと大きく揺さぶれば、「い、言う、から、ちょ、は、なせ、って」と苦しそうに呻いた。
「すまん。茜のこととなるとな、つい」
そう言って、手を放す。
「気持ちはわからんでもないけど。それで、その、最近会ってないだろ」
「そうだな。まぁおれが遣いに出てたってのもあるが」
「うん。それに出発前も、これだったし」
と、辺りを見回して、鼻をひくつかせる。
「――で、もちろん今夜も無理だ」
「だろうな。お峰母さんを恨むぜ」
「恨むなよ。まぁ、俺としては、正直なところ、これといって支障がないと思っていたんだが――」
「何だ、お前の方にも何か影響があったのか?」
定期的に鬼に戻らなければならないとか、もしやそういうことでもあるのだろうか。ならば平八に長い休みでももらってまたあの島にでも行けば――などと考えていると、胸に手を当てたまま黙っていた太郎が、「痛いんだ」と漏らす。
「痛い? どこが?」
「ここが」
「ここって、胸か?」
「胸というか、その内側というか」
「ということは、心臓か?」
「たぶん」
「おい、そりゃあまずいんじゃないのか。心臓が痛むとなれば、それはかなりの大病だぞ」
「そう思って、念の為飛助にも相談してみたんだ」
「あいつに聞いて何がわかるっていうんだ。せめて姐御ならまだしも」
腕を組み、心臓、心臓かぁ、と呟きながら眉間のしわを深く刻む。医学の知識のない自分がここで唸っていたところで何も出来ないことくらいわかっている。これがもし茜だったならば、その身体を強く抱いただろう。もちろん厭らしい意味などではなく、胸を擦ってやっただろう。
けれど太郎にそれをするのは憚られた。
「それでな、飛助が言うには」
「何だよ。だから、あいつに何がわかるって――」
尚も太郎の口から『飛助』の名が出るのが腹が立つ。
腹立ち紛れに床を殴る。とはいえ布団の上なので大して痛くもなかったが。
何であいつなんかを頼るんだ。そりゃあおれはここしばらくいなかったけど。だからって、何であいつを。
おれがいるだろう。
おれが一番の友達だろう。
悔しさに歯噛みしていると、彼がなぜ布団に拳を振り下ろしたのかをまるでわかっていない太郎は、首を傾げつつぽつりと言った。
「この胸の痛みは、茜が恋しがってるからじゃないかって」
「――はぁ?」
「飛助がな、そう言ったんだ」
「は? はぁ?」
「お前に会いたいのに会えないから、寂しくて泣いてるんじゃないのかって」
「お、おれに、か」
「白狼丸に決まってるだろ。何せ――」
お前は茜の夫なんだろ、と柔らかい笑みで告げられ、白狼丸の何かがぷつりと切れた。
勢いよく太郎に飛びついて、さっきよりも優しくその身体を抱く。その力は優しくとも、振りほどけないほどに固い。
「茜ぇぇぇぇぇ!」
「――うわぁ!」
「そん、そんなに、そんっなに、おれに会いたかったか! お前、可愛いなぁっ!」
「ま、待て白狼丸! 俺だ! 俺は太郎だ!」
そんな太郎の訴えもいまの白狼丸には届かないようであった。
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