長屋に満ちる桃の香

白狼丸の帰宅①

 白狼丸が石蕗つわぶき屋の長屋に戻って来たのは東地蔵あずまじぞうを経ってきっちり四日後の夕方のことだった。


 どこを歩いてもふわりと漂う桃の香に首を傾げる。


 すれ違った売り子の姉さんを捕まえて問い質すと、ここ数日、「良い寒桃が安くたくさん手に入ってね」とホクホク顔のお峰母さんが毎食に桃を添えてくれているのだと嬉しそうに教えてくれ、白狼丸はがくりと肩を落とした。


 食堂だけならまだしも、長屋中――何なら店の中までうっすらと桃の香りがするようで、すれ違う従業員からもそれがほんのりと香ってくるともなれば、さすがの太郎も限界だったらしい。彼が極度の桃嫌いであると知らないその姉さんから、太郎が夕飯も食べずに自室で臥せっているとも聞いて、白狼丸は、荷を下ろすこともせずに彼の部屋へと急いだ。


 が。


 その彼の部屋(旧掃除用具入れ)の戸の前に、でん、と胡座をかいて陣取っていたのは飛助である。顔のあちこちに擦り傷だの切り傷だのをこしらえているのが気になるが、いまはそれよりも太郎だ。


「やっと帰って来たな、白ちゃん」

「おう。太郎の様子はどうだ」

「どうもこうもないよ。食べなきゃ大丈夫だろって油断してたらさ、真っ白い顔してふらふらしてんだもん。おいらもびっくり」

「マジかよ」

「それでも店先で客を引いてたってんだから、ほんとタロちゃんってば真面目だよねぇ」


 自分がここで客を引かねば売上が、などという責任感でずっと立ち続けていたのだろう、そんな姿を想像するだけでギュッと胸が締め付けられる思いである。


「そんで、見かねたお客さんがタロちゃんを店の中に引っ張って来たってわけ。ただ、まだ店先の方が良かったみたいだけどね、ほら、店中長屋中桃の匂いがすごいだろ?」

「そりゃまぁ確かになぁ」

「で、皆が寄ってたかって見舞いに来るもんだから、おいら、ここで門番してたの」

「そりゃご苦労なこって」


 ちらりと戸の方に視線をやりながら白狼丸もその場に腰を下ろして胡座をかく。そこで彼は、顎を擦って、「けどよぉ」と首を傾げた。


「村にいた時だってこんなもんだったぞ?」

「こんなもんって?」

「まぁ、厳密にいやぁ、太郎の村じゃねぇんだけどな? お前もこないだ来たじゃねぇか」

「あぁ、白ちゃんトコ?」

「そうそう。あそこは誇張抜きに一年中桃だらけだからな。結界みたいなもんなのかもしれねぇけど、そりゃあ茜も出てこらんねぇって話よ」

「そうだよねぇ。じゃあ、こっちに来て余計弱くなっちゃったってこと?」

「それはわかんねぇけどさ」


 この分じゃこの文を渡すのも明日になりそうだと腰を浮かせかけると、天岩戸のようにぴたりと閉ざされていた戸がわずかに開いた。すぅ、という音と気配で飛助が振り返ると、その隙間からこちらを覗いている太郎の姿が見える。


「タロちゃん、もう起きて大丈夫なの?」

「うん、少し楽になった。白狼丸が戻って来たのか?」

「ごめんね、うるさかった? ほらぁもう白ちゃんの声がデカいから――」

「おれのせいかよ!」

「だからそれ! うるさいって!」

「頼むからどっちも少し声を落としてくれないか」


 いつもより覇気のない声に窘められ、白熱しかけていた犬と猿は揃って肩を竦める。


「白狼丸」

「何だ。水か? それとも何か腹に入れるか?」

「いいや、大丈夫。そうじゃなくて」

「それじゃあ何だ?」

「それじゃ、風呂かい? 入りそこねたもんねぇ。身体を拭きたいなら盥に湯を汲んで持ってこようか?」

「ちょっと待て。そんでお前が拭くとか言うんじゃねぇだろうな」

「えー? いや、届かないところくらいはお手伝いしても良くなぁい?」

「良くなぁい? じゃねぇ! 良くねぇ!」

「またすーぐ熱くなるんだから、もう。で? タロちゃんはそこの駄犬に何をご所望なのかな? ちゃあんとそのお口で言わないと、このお馬鹿な犬には伝わらないんだよぅ?」


 半眼でにやりと笑えば、『お馬鹿な犬』の言葉に反応した白狼丸が再びそのこめかみに血管を浮き上がらせるが、さっきまで床に伏してた人間に二度も声を上げさせたくはないと、ぐっと堪える。


 すると、そのわずかに開いた戸の隙間から、「手を」という短い言葉と共に白い手がすぅ、と伸びてきた。飛助の目の前を通り過ぎて、自分の方に差し出されたその手を取ると、爪の先までうっすら青く冷え切った指に、きゅ、と力がこもる。


 平時は岩をも砕かんばかりの握力を有しているその手の弱々しさに、そんなにも悪いのかと込み上げるものがあるが、それには気付かないふりをして握り返す。しばらくの間そうしていると、徐々に太郎の白い手に赤みが戻っていく。


 彼の手がほかほかと温まる頃には、死人のようだった青白さもすっかり元の血色を取り戻していた。

 彼が求めていたのはこれだったかと、ほんの少し力を緩めると、今度は軽くだが、くい、と引かれる。


 何だ。

 まさか部屋に来いと言うわけではないだろうな。


 などと思っていると、「飛助、その……」という恐々とした声が聞こえてくる。


「ん〜? 大丈夫大丈夫わかってるよぅ。さぁて、おいらはぼちぼち部屋に戻るかなぁ。明日作業部屋の鍵開け当番で早いんだ」

「ずっといてくれてありがとうな、飛助」

「あぁん、良いんだよぅ、お礼なんて。でもタロちゃんがどうしてもって言うんなら、今度膝枕でもしてもらおうかな? ぐふ」

「膝枕? そんなもので良いならいくらで」

「とっとと部屋戻れ」


 太郎の言葉を遮って、飛助をしっしと追い払う。太郎には柔らかな笑みを向けていた飛助だったが、白狼丸に対してはギッと鋭く睨みを利かせ、忌々しそうに「貸しだからな」と言った。


「何が『貸し』だ。顔中傷だらけにしやがって。性懲りもなく太郎に手ェ出したんだろ」

「姐御を味方につけるとか卑怯だぞ。あんなの素人に勝てるわけねぇじゃん」


 んべぇ、と舌を出してくるりと踵を返し、ぺたぺたと歩き始めたかと思うと、ぴたりと止まって首だけを白狼丸の方に向け、「それから」と言った。


「別にタロちゃんを譲ったわけじゃないからな!」


 何のことだ、と問いかける間もなく、彼はひょいひょいと柱やら梁やらに手をかけて、ばーかばーか、とわっぱのようなことを叫びながらあっという間に廊下の角を曲がって行ってしまった。


 何にせよ、うるせぇやつがいなくなったと安堵し、白狼丸は太郎が待つ部屋の中へと入った。

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