白狼丸の不在②

「それはそうとさ」


 そう飛助が言うと、太郎は眉を寄せたままではあったが、やっと顔を上げた。葉蔵が内心「良いぞ飛助」と彼を褒めつつ、ホッとしたような顔で彼を見る。


「白ちゃんは? もう飯食っちゃったの? 葉蔵兄さん、白ちゃんはまだ仕事なんですか?」


 飛助がここに来たのはいつもより少々早めの時間だったので、もし彼の休憩がこれからなのだとしたらそろそろやって来てもおかしくない。それに、大抵の場合、飛助がこうして太郎とじゃれていると、それを察知したかのように音もなく現れては、こっそり彼の方へと伸ばしていた手を叩き落としたりするのである。


 なのに今日は一向に現れない。


 もしかしたらここで太郎に抱き着きでもすればすっ飛んでくるのかもしれないが。


「ああ、白狼丸は」

「白狼丸なら遣いに出てる」


 言いかけた太郎に被せるようにして、葉蔵がその続きを語る。


「お遣いですか?」

「そう、旦那様の言いつけでな。お得意さん――といっても旦那様の弟夫婦なんだけど、そこに菓子を届けに行ってるんだ。四日は戻らないって」

「へぇ。あの白ちゃんが一人でお遣いですかぁ。いくら弟さんっていっても大丈夫なのかな。失礼なことしてなきゃ良いけど」

「まぁ、俺達もそこが心配なんだが」


 腕を組み、仲良く揃ってううんと唸る二人に、「大丈夫ですよ」と答えたのは太郎だ。


「あいつだって礼儀はちゃんとわきまえてるさ」


 曇りのない目で二人を交互に見つめられれば、思わずそうかもしれない、と納得してしまいそうになる。が、いいや、あの白狼丸だぞ? と飛助と葉蔵は揃ってかぶりを振った。


「まぁ、あいつが抜擢されたのには理由があってな。その弟夫婦の家ってのが、白狼丸の故郷に近いんだよ」

「えぇ。てことはタロちゃん家もすぐ近くじゃん。一緒に行けばついでにおじいさんとおばあさんに顔見せられたのに」

「そうなんだけど。俺は、あんまり長く店をあけられないというか。それにほら、こないだも会って来たしな」


 本当は行きたかったのだろう、弱ったように眉を下げて、切なそうに笑う。


「そんなわけで、だ。白狼丸が不在の間、この葉蔵兄さんが太郎のお守りを仰せつかったというわけなんだ。はっはっは」

「へぇ~……」


 白狼丸のことだから、葉蔵にそんな大役を任せるはずなどない、と飛助は思う。むしろそれよりも自分に釘を刺していくはずなのである。


「おれはこれから四日ほどここをあけるが、その間に太郎におかしな真似でもしてみろ。てめぇのそのケツを火炙りにしてやるからな」


 くらいのことは言いそうだ。

 なのに、今回、それがない。

 余程急ぎの遣いだったのだろうか。


 お守り、という言葉に不服そうな顔をしてはいるものの、それが先輩であるために表立って抗うわけにもいかず、太郎はむぐむぐと口を歪ませている。その様も飛助あたりには大層可愛らしく見えるのだが、当人は当然それどころではない。


 何せ白狼丸が戻ってくるまで、このお守り役の葉蔵から逃れられないのだから。


 その数秒の後、伊助から呼ばれた葉蔵が「すまん、お先に」と盆を持って席を立つと、太郎は、ほぅ、と肩の力を抜いて、誰にも聞こえないような小さな声で「参った」と呟いた。


 そしてそのまま、きゅ、と眉を寄せて上目遣いに救いを求めるような視線を向けられる。こみ上げる庇護欲が溢れて堪らず、ついついからかってしまいたくなるのは、年上の余裕というやつだろうか。


「そっかそっかぁ。葉蔵兄さんが見ててくれるなら安心安心。そんじゃタロちゃんのことは兄さんにお任せしちゃおっかなぁ」


 意地悪な笑みを浮かべてそんなことを言ってやると、いよいよ太郎はへにゃりと眉を下げ、その大きな瞳を潤ませた。彼にこんな顔をさせたと知られれば、あのおっかない番犬に何をされるかわかったものではない。


「嘘嘘、嘘だよぅ、タロちゃあん。弱ってるタロちゃんがあんまりにも可愛いもんだから、ちょっと意地悪したくなっただけだってぇ」


 と、両手を伸ばして彼の頬を包み、額を寄せよう(そしてあわよくばその無防備な唇をも奪ってやろう)としたところで――、


 ひゅ、と風を切る音がして、いや、実際に風を切って、何やら鋭いものが飛助の額を掠っていった。卓の上に彼の栗色の前髪が数本、はらり、と落ちる。


 カッ、という音が聞こえた方を見ると、きれいに研がれた竹串が卓の上に刺さっていた。しかも、ご丁寧に文まで括り付けられている。


「こ、れは……」


 一体どこから飛んできたのか、と竹串の刺さっている角度からあたりをつけて見回すと、天井の板が一枚、ほんの少しだけずれていることに気付く。


「姐御の野郎……。成る程、白ちゃんめ、姐御を護衛につけたか」


 チッと舌打ちをして、太郎に伸ばしていた手を引っ込める。真正面から猪のように向かってくる駄犬より、元忍びの雉の方が厄介だと、その両手をひらひらと振って降参の意を示した。


 そして竹串を回収して文を開けば、そこに書いてあったのは、『渡船の駄賃を用意しときな』である。


「渡船の駄賃って……三途の川じゃんか」


 畜生姐御め、と苦笑する。すると、不思議そうな顔で飛助と、その手にある文を見つめていた太郎が「飛助、それは何だ?」と問い掛けてきた。


「え? あぁ、これはね、おいらへの恋文だよ。いやぁ、モテる男は困っちゃうよねぇ」


 くしゃりと握りつぶしながらそう答えると、


「こら、恋文になんてことをするんだ」


 と頬を膨らませる。飛助は、良いの良いのと言いながら、ぷくりと膨れたその頬を指でつぅとなぞって――、


「宣戦布告ってやつだから」


 ぴたりと閉じた天井板の方を見やってそう言った。

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