第3話
講義が全て終わった夕方頃、俺は件の美容院の扉を開けた。ちりんちりんと鈴の音と共に扉が開かれる。
「いらっしゃいませ!」
と茶髪の女店員が出迎えてくれた。
扉を開いた先には、豪奢でお洒落な雰囲気が漂う別世界が待っていた。
俺から右手の手前を見ると、鏡と椅子が整然として並べられている場所がある。きっとあそこで髪を切るのだろう。所々にお花が飾れたりしてお洒落だ。
次に、右手側真ん中を見てみると、12人くらい囲えるのではないかと言うくらい大きなドーナツ状の楕円形のテーブルがあった。ドーナツ状になっているそのテーブルの内側は棚になっているようで、漫画が全ての段に納められていた。漫画は極道とかをモチーフにしたものが主だった。外側にはローラーのついた腰掛けが何個か置いてある。
そして、これが俺の度肝を抜いたのが、まるで黒曜石で出来ているんじゃないかと思うくらい綺麗な台座と洗面台があった。これは多分、髪を洗う場所ではないだろうか。もちろん、黒曜石ではないと思うが、それでもその光沢は綺麗であるように感じた。洗面台は鏡と椅子と同じように理路整然と横一列に並んでいる。後ろに倒れるだろうソファは黒い色をしていて、台座と洗面台だと合ってて格好いい。清潔感もしっかりとあって安心した。
左手側には会計するための受付と、貴重品を保管するためのロッカーが付いていた。
中を見ただけでこの店で良かったと満足してしまった。それだけにこのお洒落な雰囲気に自分のような日陰者がいてもいいのかと気恥ずかしくなって帰りたくなった。
まあ、冗談はさておきとして、俺は女性スタッフに受付に案内される。そうして、リュックサックと貴重品をそれぞれ預けさせてもらった。
「会員カードをお持ちでしょうか?」
「いえ、もってないです。あのう、すみません。俺、今日が初めてなんです」
「ああ、そうでしたか。それでは新規でお作りしますか?」
「はい、お願いします」
「それでは、この書類とアンケートをそちらの席でお書きください」
女性店員に提示されたのはさきほどの楕円形のテーブルだった。その腰掛けに座る。
うん、中々の座り心地である。
ほんのちょっと満足して、すぐさま書類に目を通し書き始める。氏名・住所等、記入したあと、今度はアンケートに目を通す。それには最近、痒みに悩まされてますか?とか、くせっ毛ですか?とか、地肌トラブルなどはありますか?などの質問が書かれていた。正直、よくわからなかったので、なんとなく適当に書いた。あまり自信はないが、まあ別に問題ないだろう。
そのアンケートの最後の項目にこのようなものがあった。
「あなたは自分のことが好きですか?」
俺は思わずペンを止めて、唸ってしまった。
ずるい。卑怯だ。姑息だぞ。
なかなかにひどい質問である。そうしてどうにも、俺はこの質問に対してYESと答えることができなかった。
それは俺の心の底からの叫びである。
もはや本能と言ってもいい。
そうして、五段階における一番下の「嫌い」にチェックを入れた。その下の空欄には「自分のどのようなところが嫌いですか。具体的に書いてください」と書かれていた。
これもほぼうんざりしながら俺は書いていく。
「自信がない」「我慢強さがない」「優柔不断」「責任感がない」「流されやすい」「コミュ力がない」「陰険」
と箇条書きでばんばん書いていく。気づいた時には空欄が全て埋まっていた。
はあ、馬鹿みたいだ。
自然と、幸せが逃げるため息をついた。
その書類とアンケート用紙を店員に渡すと、苦い顔をされた。
「そ、それではシャンプーから入りましょうか?」
へー、珍しい。まず髪を洗うことから始めるのか。自分が知っている散髪屋さんは基本的に髪を切ったあと髪を洗うのだが、どうやらここは違うらしい。
確かにそちらの方が手っ取り早い。なぜなら、髪を湿らせた方が切りやすいからだろう。ほら、散髪屋だと、最初に霧吹きを吹きかけられることがあるはずだ。たぶん、それと一緒なんじゃないだろうか。それにある散髪屋に行った時、髪に霧吹きもされずに切られたことがあったが、あれは痛かった。時々、髪を抜かれているような激痛がするのだから勘弁してほしいものである。
と過去に浸りつつ、今の手順に物珍しさを感じた。
そのあと女性店員さんに髪を洗ってもらう。
これがなかなか、気持ちいい。
「どこか痒い所ありませんか」
と言われたが洗うのが気持ち良すぎてどこが痒いのか忘れてしまった。
(洗っている最中、顔面に柔らかい感触を感じ興奮したのは内緒である。最高だった。)
髪を洗ってもらったあと、鏡の前にある椅子に座るように言われた。俺は腰掛けたあと、どのような髪型にするのかを店員と話し合った。ちなみに店員は誰を指名していいのか分からなかったために誰でもいいと言っておいた。その店員はかなりグイグイくる人でこうした方がいい、ああしたほうがいいと積極的に提案してくれた。それでも俺が希望を言うと、その意見を蔑ろにするのではなく、その意見を汲んだ上でまた違う髪型を考えてくれるのだ。
また一つ。この美容院の魅力に気づかされてしまった。
「あとお客さん、最後の項目のところは…その…かなり書かれていますね。」
「まあ、そうですね」
俺は自嘲気味に答える。そうして気分が良くなってたせいか、俺は自分のことがどれくらい嫌いで、それがどのくらい根強いのかをこれでもかと言うくらい語ってしまった。もしかしたら、店員さんは引いてしまったのでは?と思ったが、それにも「うんうん」と相槌をうちながら真摯に聴いてくれた。
「それならば是非とも当店のサービスを受けてはいかがですか?」
「性格を変えるあれでしょ? んや、やめておくよ。俺は自分で治したいんだ」
「そう仰らずに! 今なら安くしますし! それにこんなに多くは変えられないはずです。心配ならお試しでもいいので」
店員さん、やはりグイグイきた。先ほどからの店員さんの態度からだいたい予想はしていた。
「そうですね。せっかくだし変えてしまおうかな」
俺はその時かなり気分が良かった。そのせいかその店員さんの提案にあっさり乗った。
「それじゃあ、目を瞑ってくださいね」
そのように言われ、俺は目を瞑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます