第59話 甘える雪奈は離れてくれない(前編)

「どうぞ」


 控えめなノックの音に立ち上がってドアを開けると、そこには雪奈が立っていた。肩甲骨の辺りまである長い髪が、廊下の明かりに照らされてつやめいている。

 彼女が腕に抱いているのは、数学の教科書と青いノートだ。


「……どうしたの? こんな時間に」

「そっ、その……勉強! 教えて欲しくて……」


 時刻はもう夜の11時を回っている。とはいえ、こんな時間まで勉強を頑張っているのは偉いことだ。そういえば雪奈の期末試験は明後日だったっけ。


「勉強なら結衣花さんに教えてもらった方が――いだっ!!」


 正直な感想を口にした途端に手の甲を軽くつねられ、僕は雪奈を丁重に招き入れた。


「それで、どこが分からないの?」

「ここなんだけど」

「えーっと……あぁ、それは」


 教えるといっても、僕も高校生になったばかりだから、結局のところ学力の差はあまりない。それでも、可愛い妹のためならばと何とか頭を回転させ、使う公式を引っ張り出した。


「あ、なるほどっ!」

「どういたしまして」


 つい頭を軽く撫でてしまい、慌てて僕は手を引っ込めた。女の子の髪を勝手に触ったら怒られてしまうし、セクハラと言われてしまう。まして反抗期の雪奈にとっては――。

 そう思ってお叱りを覚悟していたのだが、平手打ちは一向に飛んでこなかった。ごめんと口にしかけたその瞬間、雪奈が僕の肩に倒れ込んでくる。


「ちょ、ちょっと雪奈っ!?」

「ごめん……眠、くて……」


 そうして僕の右腕を抱き枕にした彼女は、一瞬で寝落ちしてしまった。


「え、ちょっ……雪奈……?」


 小声で囁くが、彼女は静かに呼吸するばかりで答えてくれない。

 しかしだ。雪奈の心臓がめちゃくちゃバクバクしているのが、抱き枕にされた僕の右腕にダイレクトに伝わってくるのである。……ついでに、それなりの大きさがある柔らかい感触も。


(雪奈のやつ、絶対起きてるだろっ!!)


 声にならない叫びを心の中で上げながら、僕は困惑した。


(ちょっと前まではあんなに避けられてたのに……ここ最近の雪奈、一体どうしたんだろう……? ストレスでおかしくなっちゃったとか……?)


 原因は分かりそうもないけれど、一つ分かったこともあった。


(まぁでも――こうして抱き着いてもいいっていうくらいには、僕のことを信用してくれてるんだ。嫌われてたわけでもなかったんだ)

 

 そう思うと、胸の奥が温かくなった。


(にしても……どうすんだ、これっ! 引き離そうにも――離れてくれないし!)


 右腕が塞がれているので、空いた左腕でなんとか優しく引きがそうとした。しかし雪奈は、その細い身体のどこにそんな力があるのかという万力で、僕の左腕に全力で抵抗してくる。

 その抵抗が示す意味くらいは、流石の僕にも分かった。


「……このまま寝たいの?」

「うん……」


 寝言にも聞こえる小さな声で、けれども確かにはっきりと、僕の妹は頷いた。


「しかたないなぁ……今日だけだよ」

 

 溜め息をついて、僕は雪奈とベッドに腰掛けた。そのままリモコンで照明を消し、一緒にゆっくりと横になる。いつも使っている布団と枕を雪奈に譲ろうとすると、彼女はまたも抵抗した。


「……お兄ちゃんも、一緒に使って」

「で、でも……」

「嫌なの……?」


 ――正直に言えば、嫌なはずがなかった。


(すっごく良い匂いだ……)


 視覚が遮断されたからなのか、嗅覚が一気に鋭くなったらしい。ひっついてくる雪奈の全身、特に頭の辺りから、途方もなく甘い香りがする。確かに雪奈たち女性陣は僕が使っている安いシャンプーとは別のものを色々と使っているみたいだし、特に結衣花さんなんかは僕に強く勧めてくる。いま雪奈から漂ってくるこの香りは、男の僕も使ってみようかと思ってしまうほど良い香りだった。

 

「……分かった」


 だけど、もうシャンプーとかトリートメントとか、そういう問題ではないのだろう。これがきっと“女の子の香り”というやつなのだ。


「そっか」


 ぶっきらぼうな台詞を口にした雪奈の声は、あからさまに弾んでいた。

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