第60話 甘える雪奈は離れてくれない(後編)

 目が覚めると、すぐ目の前に雪奈の顔があった。しかも、僕の鼻と彼女の鼻が触れてしまっている。僕の足と彼女の足は絡み合っており、雪奈の両腕は僕の脇の下あたりをぎゅっと抱いていて、僕の両腕もまた彼女の脇腹あたりを――。


(……っ!?)


 確かに昨夜、雪奈の可愛らしくささやかな抵抗によって仕方なく、僕は彼女と一緒に寝た。でも、お互い寝ている間とはいえ、一つしか歳の変わらない妹の身体を抱き締めてしまっているのはどうなんだ。学校では男子にモテモテだろう整った顔立ちはすぐ目の前にあるし、彼女の決して小さくはない柔らかな感触は僕の分厚くもない胸板に押しつけられている。

 そして何より、中3のくせに色っぽい唇は、もう少しで僕の唇に重なってしまいそうなほどに近い。旅館の混浴露天風呂で僕の頬にキスしてきた、あの唇が。


(なに意識してしまってるんだ僕はっ! 雪奈は妹だってのに……)


 我ながら情けなかった。もちろん、ここまで甘えてくれていることからして、今となっては雪奈のには気づいている。今までは見事なまでのツンデレで、けれど実際は兄である僕のことを信頼してくれていたのだろう。

 だからこそ、僕は彼女の好意を、必要以上に真面目に受け取ってはいけないのだ。これはちょっと仲の良い兄妹のスキンシップみたいなもので、それ以上の関係になろうだなんて風に考えてはいけない。もしそんなことを意識してしまったら、僕と雪奈は今までのような関係ではいられなくなってしまう。


(もし雪奈が、僕と兄妹じゃなかったら――)


 ふとそんなことを考えてしまった自分を恥じた。

 雪奈が僕の妹ではない世界線なら、僕は彼女と知り合うことも、こんな風に仲良くすることもできなかったに違いないのだから。


 滑らかさと光沢をまとった髪を、そっと撫でてみる。それで起こしてしまったら怒られてしまうかもしれないけれど、それでも、僕は撫でずにはいられなかった。


「ああ、そっか……僕は雪奈のことが好きなんだ」


 そう口にした途端、僕の全身を不思議な温かさが満たしていった。無防備に甘えてくる妹のことが、気づけばどうしようもなく愛おしくなってしまっていた。こんな風に思うようになってしまったのは、一体いつからだったのだろう。


「えへへ、お兄ちゃぁーん……もっと、もっとしてぇ……」


 だらしない笑みを浮かべる寝惚ねぼけた雪奈はあまりにも可愛くて、もう僕もどうにかなってしまいそうで。何とかそっとベッドを抜け出そうとしたけれど、その度に彼女の両腕が僕を抱き締めてきて、絶対に放そうとしてくれない。


 結局スマホのアラームが鳴ってしまい、長い睫毛まつげの美しい雪奈の瞼がゆっくりと開く。水晶のように澄んだ瞳がこちらを見つめ、パチパチと瞬きした。まさしく雪のように白い彼女の頬はすぐに紅くなり、そしてそれを隠すように、彼女は僕の首元に顔をうずめてくる。


「……っ! お、おはよ……っ」

「……おはよう、雪奈」


 雪奈の可愛らしくも確かな吐息が、僕の首筋をくすぐっている。小動物のように甘えてくる彼女は可愛くて、可愛くて、可愛かった。

 しかし、現実は残酷だ。今日は日曜日が明けた月曜日なのである。いつまでもこうしてはいられない。


「雪奈……そろそろ起きないと遅刻するって……」

「えー……もうちょっと……」

「もうアラーム鳴ってるから……本当はさ、僕だって――」


 そう言いかけると、雪奈は僕の首元から顔を話してこちらを見つめてきた。

 そんな目で見られると、何だか気恥ずかしくて続きを言えない。


「つ、続きを言ってよ……」

「……」

「言って……っ」


 鼻と鼻が触れ合い、今にもキスしてしまう寸前の距離。雪奈の甘い吐息が僕の鼻腔を惑わし、じわじわと理性を削ってゆく。


「――僕だって、まだ雪奈と寝ていたいって……思ってるよ」

「……っ!」

「だけどさ、もう起きないと学校に遅れちゃうのは分かるだろ? 階下したでは澪奈と結衣花さんが待ってるだろうし」

「……うん」


 流石に分かってくれたかと思い、身体を起こそうとすると、雪奈は僕の背中に抱きついて妨害してきた。


「雪奈さん!? 起きれないんですけど……」

「大丈夫、このまま起きて」

「理不尽だ……くぅっ」

「あと、ついでにあたしをおんぶして洗面所に連れてって」

「それは流石にちょっと無理というか……」

「あたしが重いって?」

「そうは言ってないだろ! ああもうっ」


 本気でおんぶするかと覚悟を決めたそのとき、僕が真面目な顔をするとは思っていなかったらしく、雪奈はくすくすと笑った。


「ごめんごめん。普通に歩いて、一緒に行こう」

「おう……」


 こんなに屈託のない彼女の笑顔を見たのはいつぶりだろうかと思いつつ、いつの間にかさりげなく恋人繋ぎをされていることに、僕は戦慄した。

 案の定、廊下で結衣花さんと鉢合わせて、雪奈にひっつかれたままで「おはよう」と挨拶してしまい、「孝樹君、おはよう! ……雪奈ちゃんも」と笑顔を崩さずに返してきた結衣花さんと雪奈との間で朗らかな火花が散ったようにみえたのは、僕の気のせいだと思いたい。


 だけどまぁ、雪奈が僕に甘えてくれていることについては、悪い気はしなかった。  

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