第53話 「娘さんは僕が幸せにしてみせます」(後編)

「それで……結衣花はどうかしら?」 


 烏龍茶を飲んで一息ついていると、沙月さんが娘をちらりと見ながら尋ねてきた。


「どうって……もう最高の女性だと思います」

「ちょっ、孝樹君っ!?」

「こんなに可愛い同級生が我が家にいてくれて、掃除も洗濯も料理もしてくれているだなんて、正直今でも信じられませんよ……いたっ!?」

「もう、やめてってば……」


 顔を真っ赤にした結衣花さんに左手の甲を軽くつねられて、僕は慌てて謝った。でも、全て事実なのだ。沙月さんには彼女がいかに素晴らしい娘に育っているのか、もっとアピールする必要がある。


「楽しそうね」

「ええ」


 お茶を一口すすって呟いた沙月さんは、どこか寂しそうだった。


「結衣花のこんな笑顔を見たのは、いつぶりかしら……」

「それは……」

「私の力では引き出せなかった笑顔を、笹木君なら引き出せるのね」


 優雅な所作と力ない微笑みの中に刻まれた深い苦悩が垣間見えた――そんな気がして、僕は言葉に詰まった。

 沙月さんはやり方を間違ってしまったのだろう。不倫され、仕事に打ち込み、娘との時間を減らして。そうしてすれ違った果てに、一番大切な存在と対立し、傷つけ、殴り合うことになってしまった。その責任を問うのは簡単だ。批判することも容易い。けれど、子育ても仕事もしたことのない僕に、それをする資格があるだろうか。どうして彼女を易々やすやすと責められるだろうか。

 とはいえ、結衣花さんが深く傷つけられたのもまた揺るがぬ事実なわけで。


「お母さん」


 静かに言った彼女の声に、僕と沙月さんが顔を上げたのはほぼ同時だった。


「私、お母さんのことを嫌いになったわけじゃないよ」

「そう、なの……?」

「うん。辛かったことも苦しかったことも、イライラしたことだってたくさんあった。でもね――お母さんは私にとって、今もちゃんとお母さんなんだよ」

 

 沙月さんは再びうつむいて、細い肩を震わせていた。


「結衣花さん。もう一回やり直してみる?」

「やり直すって……?」

「沙月さんと。ここのこと、心配なんじゃないかなって」


 切り出すのは正直辛かった。でも、目の前の母娘のことを思うと、二人の幸せを願わずにはいられなくて。結衣花さんを失った沙月さんが、これからもずっと一人で生きていけるのか。僕たちが結衣花さんを奪うような形になってしまって良いのだろうか――。


「僕たちのことは大丈夫だから。結衣花さんが安心できるなら、お母さんと一緒にいてあげたら? もし何かあったら、またウチに戻ってきて良いってことで……」


 おずおずと言うと、彼女は溜め息をついて顔を背けた。


「一応聞くけど……私が邪魔だって意味じゃないよね?」

「そんなことないよ!?」

「妹さんたちにそう言うように言われたとかじゃ」

「どうしてそうなるの!?」

「そう。じゃあ、私がいなくなった後、誰が家事をするの?」

「それは……僕が」

「成績落ちても知らないよ?」

「うぐっ……でも、結衣花さんにこれ以上いてもらうわけには……」

「もうっ、言わせないでよ。私がいたいからいるんだよ」

「結衣花さん……」


 はっきりと言ってくれた彼女に、僕は驚きながらも思い直した。ここまで言わせてしまったのだ。これ以上結衣花さんに恥ずかしい思いをさせるわけにはいかない。


「沙月さん。結衣花さんのこと、僕たちが預かっても良いですか?」

「笹木君……」

「心配かもしれませんが、大丈夫です。娘さんは僕が幸せにしてみせます」

「こ、孝樹君っ!?」

「安心して。結衣花さんがずっと楽しく笑っていられるように、僕たちも頑張るから」


 何やら驚いている彼女に、僕は笑顔を作って頷いた。


「そう……じゃあ、結衣花を頼みます」

「お、お母さんまでっ!?」

「はい。でも、結衣花さん。週に何日かは、やっぱり帰ってあげたら良いんじゃないかな」

「……孝樹君、お母さんのことそんなに心配なんだ」

「そりゃそうだよ。結衣花さんのお母さんだし」

「そこまで言うなら、分かりました。そうだなぁ……じゃあ、火曜日と金曜日でどう?」


 少しばかり強引な形になってしまったけれど、やっと復縁したばかりの親子がずっと離れたままでいるのは望ましくない。週2回は帰ると提案した結衣花さんに、沙月さんは無表情を装った嬉しそうな顔で頷いた。


「良いのかしら……」

「良いよ。家のことは私がやっておくから、お母さんはお仕事頑張ってください」

「ありがとう、結衣花」



 ***



 エントランスを出ると、空はすっかり夕焼け色に染まっていた。


「その……ありがとね。私たちの家のこと気遣ってくれて」

「このままでいるのはお互いに良くないだろうって思っただけだよ。火曜日と金曜日のこと、しつこく言ってごめん」

「ううん、あれで良かったよ。私もさ、また頑張ってみようって思えたから」

「そっか」


 道路脇をゆっくり歩いていると、左手が温かいものに触れた。

 結衣花さんの右手だった。


「孝樹君」

「な、何……?」

「親公認になっちゃったね」

「えっ……?」

「『娘さんは僕が幸せにしてみせます』だっけ?」


 悪戯っぽくこちらを覗き込んできた僕は、そこでようやく「僕たち」ではなく「僕」と言い間違えてしまっていたことに気づいた。


「あーあ。私、これからどんなふうに幸せにされちゃうのかなぁ」


 これでは実質プロポーズじゃないか――先走った十分ほど前の自分を思い出して赤面しつつ、同時に彼女の横顔を見てふと思う。


(嫌がられてないってことは……)


 なるべく静かに深呼吸をして、僕は勇気を振り絞った。

 左手をそっと動かして、結衣花さんの右手に触れる。そしてそのまま繋いだ。


「……っ」

「き、綺麗だね」

「うん……」


 それから一言も話さずに、僕たちは手を繋いだまま家へ帰った。夕陽色に染まった彼女の横顔は、眩しいほどに美しかった。

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