第52話 「娘さんは僕が幸せにしてみせます」(中編)

 愛されてなんかないと思っていたし、事実そうだったと思う。


「不倫……ですか」

「ええ。結衣花が三歳の時に発覚して、それからすぐに離婚したわ。私も見る目がなかった」


 お母さんの膝の上から戻った私は、孝樹君の隣に座り直して、二人の話をただ黙って聞いていた。


 父親のことなんか今ではほとんど覚えていない。とにかく、二人家族になった後のお母さんは、あらゆるストレスを全てぶつけるかのように仕事に打ち込んだ。私のことは保育所や親戚に任せきりで。けれど私は、そんな母親のことをカッコいいと思った。


『わたしのしょうらいのゆめは、おかあさんみたいに、かすみがせきではたらくことです!』


 小学生になった私が授業参観でそう発表した日、お母さんは見に来てくれなかった。今にして思えば、キャリア官僚がそう易々やすやすと休みを取れるはずもない。でも、国家公務員に対する私の熱は、その時から少しずつ冷めはじめたような気がする。 

 そんな私をお母さんは塾に通わせた。勉強は嫌いではなかったし、子どもながらに大事だと分かっていたから、それなりに真面目に頑張った。頑張るうちに勉強が得意になって、私は学年でも指折りの優等生キャラを確立していった。


『結衣花ちゃんってすごいね』

『頭良くてうらやましい』

『かわいくてしかも天才だなんて、いいなぁ』


 そうやって褒められるのは嬉しかったけれど、同時に「だから何なの」と思うようになった。勉強すればするほど、自分が天才なんかじゃないことは痛いほど実感させられた。客観的に見てもそれなりに整っているとは自分でも思うこの外見も、その半分はあのクズな父の血を引いた結果なのだと思うと素直には喜べなかった。結局、私に与えられる賞賛は全て表面的で、所詮は他人が適当に言っているだけのもので。


「何だかんだ、官僚は働き甲斐がいだけはある仕事なのよね。重圧に押し潰されて、同僚との競争に明け暮れて、月に百時間くらい残業して。それでも、若さのなせるわざかも知れないけれど、それなりに楽しかった」

「月に百時間って……」

「そうよ。泊まり込んだこともあったわね」


 私が欲しかったのは、母親からの賞賛だった。「塾も学校も頑張ってて偉いわね」とただ一言そう言ってもらえれば、それで済んだはずだった。そして事実、彼女はときどき褒めてくれた。でも、私は満たされなかったのだ。


「私は結衣花のこともちゃんと見ているつもりだったわ。でも、本当は全然見ていなかった。当然よね。小学生の娘に夕食を作らせて、娘が寝ている間に帰ってくるような親だもの」


 子どもにとって親が特別なのは、誰よりも近くにいる存在で、自分の内面を自分以上に知っていて、その前では何も飾る必要がないからだと思う。だから、例えありきたりな言葉であっても、学校の友達に言われるのと親に言われるのとでは全然違うのだ。でもそれは、親が子どもを愛してくれていることが前提なわけで。


「まあ、それもついこの前気づいたんだけど……」

「沙月さん……」


 幼い私には、お母さんが私の内面を見たうえで褒めてくれているとは思えなかったのだ。私のこともちゃんと見てよ、と言いたかった。休日くらい休んでよ、一日中私と家にいてよ、と言いたかった。

 でも、私の学費はお母さんの給料から出ている。私がスーパーで安物ばかり買わず、ちょっと高い食材で豪華な夜ご飯を作ることができるのも、お母さんが深夜まで働いているからだ。


「もっと構ってあげれば良かった。ちょっとやそっとの昇進じゃ給料は対して変わらないんだから、もっと休んでいれば良かった」


 私も、もっと子どもらしく甘えれば良かったのだろう。駄々をこねれば良かったのだろう。でも、歳のわりに賢かったせいか、私にはそれが出来なかった。不満もストレスも全部溜め込んで、理想の娘を演じ続けた。それでも内心構って欲しかった私は、せめてもの反抗として料理の腕を上げた。けれど、お母さんが私を褒めることは、大きくなるごとに減っていった。


「でも、それが無理だったんですよね。少なくとも当時の沙月さんに取れる選択肢ではなかったんじゃないですか?」

「そうね。はぁ……高校生の男の子に見透かされるとは」

「沙月さんほどではないですけど、僕の父も出張が多くて忙しいので少しは想像がつくつもりです。一人親ですし」

「そう……」


 中学生になった私は、学年で一番の成績を取っても褒めてもらえなかった。もちろん責められることもなかった。家に帰ってくるお母さんはいつも疲れ切っていて、顔を合わせることすら少なくて。母親の事情を頭では理解していても、反抗期を迎えつつあった私は納得できなかった。


「結衣花さん」

「……え?」

「さっきはどうして、お母さんの謝罪を受け容れたの?」

「それは……」


 突然、彼にそう投げかけられてはじめて、私は気づいた。


「これは僕の推測だけど――報われた、とか。違う?」

「……っ」

「今の結衣花さんの家事スキルだって、きっとお母さんがいないことでつちかわれたんじゃないかなって」

「……よく分かったね。私の心でも読んだの?」

「僕も少し似た状況だからだよ」


 雪奈も澪奈もまともに家事しないからさぁ、と愚痴をこぼす彼の横顔が眩しかった。もし私が孝樹君の家に生まれていたら、今頃どんな女の子になっていたのだろう。ツンツンしていてお料理が苦手だったのか、お皿割りまくりの厨二病だったのか、それとも――。


(笹木結衣花……なんてね)


 彼の妹になる光景をイメージしているうちにそんな言葉が浮かんで、自分の顔が一気に熱くなるのが分かった。

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