第51話 「娘さんは僕が幸せにしてみせます」(前編)

「ようこそ、笹木君」


 土曜日の午後。

 豪華なタワーマンションの一室の玄関で、僕は一人の女性と向かい合っていた。

 彼女が夕島沙月ゆうしま さつき――結衣花さんの母親だ。


「お邪魔します」 


 結衣花さんと同じ色の長い茶髪は流れるように美しく、切れ長の涼やかな目元は見る者に知的な印象を与える。相対するだけで縮み上がりそうになるほどのプレッシャーを感じつつ、僕は無表情を装って上がり込んだ。僕の後ろにいる結衣花さんも無言で気まずそうに続く。


(やっぱり雪奈と澪奈にも来てもらえば良かったかな……いや)


 あの二人はやはり連れてこなくて正解だっただろう。ブチ切れて突っかかった雪奈は返り討ちにされ、澪奈はひと睨みされただけで震え上がる光景が目に浮かぶ。


「広いお部屋にいらっしゃるんですね」

「ええ、まぁ」


 用意されたスリッパを履いて廊下を進む。結衣花さんの事前情報によると、沙月さんは自ら掃除を進んでやるタイプではないらしいけれど、さっと見渡せる範囲にはちり一つ落ちていない。


「あの人が自分で掃除したなんて……」

「そ、そんなに?」

「うん。家事全般は今まで全部私がやってたのに」


 こそこそ話していると、先を歩いている沙月さんがこちらを振り返った。娘と同じ、鮮やかな夕陽色の瞳。鋭い眼光に射竦いすくめられ、僕たちは息が詰まるような緊張に襲われる。


(あの目で圧迫面接される部下は大変だろうな……)


 彼女は財務省の官僚だそうで、それも結構な地位にいるらしい。百兆円もの国家予算を作るなかでは、あの程度の眼光など当たり前なのだろうか。


「お茶が良いかしら。それともコーヒーの方が良いかしら」

「いえ、僕は大丈夫ですから」

「毒なんて入れていないわ」

「じゃ、じゃあお茶で」


 唐突なギャグが入ってきたけれど、抑揚のない口調で言われても全くもって笑えなかった。もしかして、意外と茶目っ気のある人なのか。斜め後ろにいる結衣花さんに視線を送ると、彼女は少し驚いた表情でふるふると首を横に振った。


「結衣花は?」

「えっ……じゃあ、私もお茶で」

「そう。二人とも、そこのソファに座っていて」

「では、失礼します」


 二人がけの白いソファに並んで座る。左隣に腰を下ろした結衣花さんは落ち着いているように見えるけれど、その手先が震えているのを僕は見逃さなかった。


「……大丈夫?」

「あはは……バレちゃったか」


 自嘲気味に呟いて目を伏せる彼女に、大丈夫なわけないかと少し後悔した。嫌がられるかなと緊張しつつも、そっと左手を伸ばして、細く白い指先に触れる。そのあまりの冷たさに、僕は思わず声が出そうになった。

 リビングの空気は確かにえとしていて、しかもかなり乾燥していた。僕の喉がカラカラに乾いているためにそう感じるだけでは決してないはずだ。身なりを整え、ほこりを払う余裕はあっても、生活空間にまで気を遣う余裕はなかったのだろう。緊張しているのは僕たちだけではないのだ――そう言い聞かせて、僕は沙月さんの方を見やった。

 

「待たせたわね」


 首元の緩い白のシャツに黒いニットカーディガンを羽織り、グレーのロングスカートで足を隠している彼女だが、どこからか不思議な色香が漂っているように感じられた。


「ありがとうございます」

烏龍ウーロン茶で良かったかしら」

「はい」

「……今さら聞いても」


 小さな長テーブルを挟んで向かい側にある一人がけのソファに、沙月さんが静かに腰を下ろす。控えめな彼女の問いかけに僕が頷いたその時、結衣花さんは小さな声でこぼすように呟いた。そして慌ててハッと息を呑み、そっと触れていた僕の左手を強く握る。


「……そうね」


 一瞬、母娘おやこの視線が交わり、そして結衣花さんが逃げるように顔を伏せた。すると沙月さんがおもむろに立ち上がり、なんと頭を下げた。


「結衣花」

「ひっ」

「ごめんなさい」

「え……」

「実の娘に手を上げるなんて、私は母親として失格だわ」


 正直もっと面倒な展開になると覚悟していただけに、彼女がいきなり謝罪をしたのはあまりに意外で。


「えっと、その……」

「貴女の教育方針についての私の考えに変わりはないわ。でも、そのために貴女のことを傷つけてしまったことは反省しているの。本当にごめんなさい」

「お母さん……っ」


 きっとこれまでなら考えられないことなのだろう。

 涙ぐみ、そして号泣しはじめた結衣花さんの背中を、僕はそっとさすった。


「笹木君」

「な、何でしょう」

「貴方のお父様に言われたわ。『少し休まれては』って。私の場合、有給は四十日取れるのだけど、これまで一日も使ってこなかった」

「大変な仕事なんですね……」

「それもそうだけど、私が仕事人間だったのね。さして苦にしていなかった。でも、結衣花がいなくなってやっと分かったわ。あの子が一人で全部家事をしてくれていたから、私は仕事に集中できていたんだって」


 それを聞いて、結衣花さんがさらにしゃくり上げた。さっきまでの鋭い視線が嘘だったかのように、彼女の目元は柔らかくなっていて。こうして見ると沙月さんと結衣花さんはやっぱり本当にそっくりだな、なんて、思わずそんなことを考えていた。


「結衣花。今まで迷惑ばかりかけて――」

「もう……いいからぁ……っ。分かってくれたなら、私っ、もうっ……!」


 泣きじゃくる結衣花さんの手を取って、僕は彼女の背中を押した。


「沙月さん」

「笹木君……私は……」

「大丈夫ですよ」


 小さなテーブルの角を回って、結衣花さんが母の元へと歩いてゆく。

 

「お母さん……おかあぁ、さぁああんっ……!」

「結衣花……」


 まだ迷っている沙月さんに、僕は頷いた。

 彼女はしばし目を伏せ、そしてゆっくりと飛び込んでくる娘のことを真っ直ぐに見つめた。


「ごめんなさい、結衣花」


 目を閉じて娘を抱き締める母の姿に、僕の胸の奥は何故か強く締めつけられた。

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